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共生社会の幻想と希望 その2 多様性と共生。相反する中に希望を見る

コラム町永 俊雄

▲国立科学博物館で大哺乳類展が開かれている。人類も含めた哺乳類を見た目の分類に遺伝子などの系統的な分類を加えて大行進させ圧巻だ。生物多様化は共生を支えている。弱肉強食だから、食われちゃう関係だけれどね。さて人類の共生は…

共生社会の反対語と聞かれたら何を思いつくだろう。
あえて考えてみると、言葉としてこなれていないが排他社会だろうか。共生という言葉の対語としたらそうなる。排他社会。
が、どうもしっくりとこない。
認知症基本法もあって、今盛んに「共生社会の実現を目指す」と言われる。そう言われるからには、今はまだ共生社会ではないということなのだろう。だとすれば、現在は排他社会ということになるのか。もちろん現代は確かに、排他的な要素が目立ち過ぎる。でもだからと言って、この社会を排他社会と言い切ることができるかといえば、それはやはり適当ではない。

それは、運用の危うさはあっても、すでに共生はこの社会の基盤となっているからだ。
前回のコラム、「共生社会の幻想と希望」で述べたように、私たちのはるかな記憶の淵を探れば、かつての共同体の成立から私たちの共生の物語は始まっている。
遠く先人たちは氷雪と飢えの怯えの中で、生き延びるためにはひとりでいるよりは群れとなって互いの身体を寄せ合うしかなかった。でなければ、命と暮らしが繋がらなかった。生存のためには、共に生きるしかなかったのである。そこから現在の共生社会に連なる原始共同体が立ち上がった。

今よく言われる「ひとりでは生きていけない私たち」とか「共に生きる」という標語も、かつての命が追い詰められるギリギリの次元と切り離され、いまの私たちはこうした言葉を「おしゃれ」に使いまわしている。だから、排他社会と言われてもピンとこないのは、流布されている共生社会の語感の心地よさに馴染みすぎてしまっているからかもしれない。

ではなぜ今改めて「共生社会」が言われるのか。
それはかつての狩猟採集と農耕を主としてきた共同体は、近代の高度経済社会への移行と共に集団から個へと主体が変更され、個の能力を競い合わせることで富と経済の社会へと突き進んで来た。当然そこに起こる軋轢や排他の課題から、かつての風土体質に根付いた共同体をアップデートし、市民社会の合意としての共生社会という概念が現れたのである。

近年はとりわけ、その提唱が障害のある人たちなどのマイノリティの側からだったことが、意識的な社会のあり方となって強い説得力を放った。
「私たち抜きに私たちのことを決めないで」と。

そこに認知症の人々も連なったのである。否定され見えない存在だった「痴呆」と言われた人々にようやくのようにして基本的人権という人間回復を謳い、それを、私たちは「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」としてともに創った。
基本法ができたと言うのではなく、「ともに創った」と記すことにほのかな覚悟を込めたい。

共生社会は選択肢として提案されたのではない。この社会の必然なのである。私たちは生き延びるためにはともに生きるしかない。

しかし、そのような意識的な共生社会の提言は用語の目新しさが前景化して、そもそもかつてのこの社会はどうあったのか、という自身や地域社会の検証が抜け落ちてしまっている。

昼、都心に向かう電車に乗る。向かいの座席が結構空いていて気づいたことがある。今の通勤電車は、一人ひとりの座席スペースが区切られているのだ。電車によってはシートにわずかに窪みがつけられてちょうどそこにそれぞれがはまり込むようにして座るようになっている。座り心地もすこぶる良い(もちろん、電鉄会社によって事情は違う)。
確か以前は通勤電車はベンチシートで、フラットなビニールの座席だったから、混んでくればぎゅうぎゅう詰めになる。意味なく隣の人の圧力に敵意を感じたりして、通勤が地獄だったのもそのせいだったかもしれない。

ただ、時としてそこにご年配のご婦人などがいて、荷物を抱えた人や子供連れの人が乗ってくれば、「おやおや、こちらにどうぞ」と招き寄せ、両隣の人に「すみませんねぇ、ちょっとずつ詰め合わせましょうか」ともう一人分のスペースを作り、そこに座った人も「すみませんねぇ」「いえいえ、お互い様ですよ」とラッシュの車内に小さな会話が交わされたりした。

以前の共同体の社会性はここにあった。社会資本の貧しさはそれぞれの関係性で補填され、互助という新たなソーシャルキャピタルが街角のあちこちに生まれていた。
今は、個別に割り当てられたシートに快適に座って、そのほとんどは無言でスマホを見ている。

ここが難しいところである。
互いに譲り合い与え合う地域社会というのは、私が生まれ育った下町の風景だ。ノスタルジアの中に広がる失われた風景と言えるかもしれない。懐かしく切ない共感は抱くが、しかし、ここに立ち戻って組み上げる共生社会は、実は危うい。
そこにあるのは人々の善意や思いやりといった不確かさに依拠している。そこでは奪われた権利は回復はしない。そこにあるのは、幻想の共生社会だ。

「でも、善意や思いやりは大切なことですよ。みんながそんなふうになればよろしいのでは」と、縁無し眼鏡のご婦人から言われたりする。全くもってその通りでそれを否定するつもりはない。また、こうした人々は例外なくまことに「良い人々」だから申し上げるのにも気を使うのだが、でもやはりそれは共生社会の構築には無力なのである。
善意や思いやりは私たちの大切な心情ではあっても、それはどちらかといえば家族的愛情の発露に近く、共生の構築といった社会への外発の力に乏しい。

これも前回コラムに述べたのだが、かつての私たちの共同体の居心地の良さは、大家族のような同質均質を前提としてきた。美しいつながりの陰で、異質な人々を排除抑圧していた負の遺産も併せ持つ。
それは過去の話ではない。いまのSNSが目まぐるしく行き交う時代は、情報交換の広がりを見せているようでいて、そこに集うのは同質な仲間に閉じている。そこでは仲間内のSNSから排除されるひたすらの怯えの中で、擬態としての共生に囲い込まれている。

現在は、個の時代である。集団や組織に埋没しない個々人が尊重され活躍できる社会を目指している。それは多様性の要請と相まって世界のトレンドである。
通勤電車の座席の形状変化には、そうした時代が反映されている。個人はそれぞれが尊重され、車内には高齢者や妊婦の優先席があり、車椅子のスペースが設けられている。混ざり合うのではなく認め合う。

難しさはそこにある。
この個の時代、それぞれの違いを認め合いながら、ともに生きるとするいわば相反する要素を組み込んで社会を構築しなければならない。私とあなたは違うとする人々とともに生きるということは、理念的は成り立っても現実的には葛藤となる。
言い換えれば、共生という道は、価値観の異なる他者との共存という不安に満ちたイバラの道でもあるだろう。

「混ざり合うのではなく認め合う」には、どこか冷淡な響きがあるかもしれないが、「認め合う」には他者への尊重とともに、自分もまた変わらなければならないことも含まれている。あらたな関係性を構築することが新たな社会を創ることになる。
どうも私たちの共生社会には、みんな輪になってニコニコと手を繋いでいるイメージが張り付いてしまっている。

幻想を希望とするにはどうするか。
反貧困や子ども食堂の実践で知られる社会活動家の湯浅誠氏は、常々「多様性と共生は相性が悪い。多様化とは、つながりにくい社会になることでもある」と語っている。
しかし、そのつながりにくさを認めることは新たな社会像への希望となる。そこから関係性をつなぎ直すことが、多様性を包摂する共生社会につながる。
認知症とともに生きる、とは認知症の当事者自身がそこから幾筋もの新たなつながりを作っていったことから始まっている。

共生社会を、「共生社会とは」といった大きな言葉から考えるのではなく、私たちの暮らしの過去、現在、地域へと縦軸横軸に思い巡らせ、それから改めて、はて、認知症基本法には、共生社会はどう記されているのだろう、と立ち返る。
認知症基本法、第一章の総則(目的)にはこんなふうに記されている。

「認知症の人を含めた国民一人一人がその個性と能力を十分に発揮し、相互に人格と個性を尊重しつつ支え合いながら共生する活力ある社会(以下「共生社会」という。)の実現を推進する」

私はここにある「相互に人格と個性を尊重しつつ支え合う」に、多様性と共生の融合があり、「認知症の人を含めた国民一人一人」に、包摂としての共生を読み取ったりしている。
この認知症基本法に正解があるわけではない。ただ私たちに問いかけている。
今必要なのは、誰もが自分の頭で懸命に考え、自分の言葉で語り始めることなのだ、と。

認知症の当事者のひとり、丹野智文氏はそのことのみを自分に課して、この社会に希望を灯して来た。

|第281回 2024.5.29|

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