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希望は絶望に寄り添う 「生きるを支援する」自殺対策基本法と認知症基本法

コラム町永 俊雄

▲20年ほど前の清水康之さんとの対談。あの頃は自殺を語ることでこの社会を語っていた。上段は、東京ビッグサイトでの全国キャラバン、清水康之、自死遺族、姜尚中、そして町永という諸氏の語り合いだった。

普段ほとんど口を交わすこともない父親が、珍しく中学生の息子に声をかけた。
「どうだ、一緒に風呂に入ろう」
そう言われた中学生の息子は、いきなりそんなこと言われても思春期ならではの気恥ずかしさや、仕事ばかりで子供のことなど無関心な父親と一緒の入浴に気が進まず、なにかの口実をもうけて避けてしまった。

数日後、父親は自ら命を絶った。
中学生の息子は深い混乱に突き落とされた。
「あのとき、一緒にお風呂に入っていたらお父さんは死ななかった」
「僕がお父さんを死なせてしまった」

平成10年(1998年)以降、この国は14年連続して自殺する人が3万人を超えていた。
「僕がお父さんを死なせた」、少年は自分を責め続け、しかし、誰にもそのことを言えないまま、涙と青春を枯らして長い歳月を過ごすしかなかった。自死遺児のひとりだ。

NHKの報道ディレクターだった清水康之さんは、2001年にこうした大学生の自死遺児を一年以上取材し「クローズアップ現代」で放送した。
当時は自殺する人は、「弱い人間」で「その人の問題、責任」とされていた。それは残された遺族にも大切な人を亡くしただけではない辛苦を与えた。葬儀は、心臓の病で急に亡くなったことにし、しかし近隣には密やかに「自殺ですってよ」とささやく声が伝わり、遺族は悲しみの涙以上に孤立の中に自らを閉じ込め、息潜める暮らしを自らに強いた。
ひとりの自殺者の陰の、その何倍もの遺族の思いはどこにも向けることができない。語ることができない死が年間3万人、1日に90人という数値に刻まれるだけの年月が続いていた。

「こんなダメな父親でごめん」、まじめで責任感の強い人たちが、生きて生きて、なんとか生きようとした末に自ら死を選ばざるを得ない状況に追いやられ、しかも人生の最期に、自らの存在を否定し「こんな父親でごめん」と遺書に謝罪しながら亡くなっていっていく、こんな不条理があるものか。
その思いから清水康之さんは、NHKを辞め、2004年に自殺対策を支援するNPO「ライフリンク」を立ち上げる。

私がライフリンクの清水康之さんと出会い、ともに関わるようになったのはその頃からだった。
まだ青年の面影を残した30代の清水康之さんは、どこか颯爽としていて、「キミは時代を切り開く坂本龍馬みたいだね」と軽口を叩いたこともある。
しかし、その取り組みは苛烈なまでの熱と行動があった。彼のどこかに社会への怒りが渦巻いていたのかもしれない。

当時、清水康之さんが取り組んでいたのは「自殺対策の法制化」だった。署名活動を展開すると同時に、全国キャラバンと称して、自殺を語るフォーラムを開催した。全国の北から南まで一気に駆け抜けるようにして次々に開いた。それまでの語ることができない死を語り合った。
その活動を担ったのは、自死遺族、遺児の人々だった。そうした人々は、自分をすりおろすほどに懸命に裏方を担った。大切なあの人の死を無駄にしない、というより、あの人がどのような思いで生きようとしていたかを知ってもらいたい、その一念だったような気がする。

今でも思い起こすたびに胸がいっぱいになるのだが、フォーラムが終わって幕が降りた舞台袖でみんなが集まって、代表の清水康之さんが挨拶をする。必ずのようにして清水さんは涙声になって、それを聞く自死遺族の誰もが肩寄せ合い、嗚咽を抑えきれない。号泣する人も少なくなかった。悲しくて泣くのではない。やっと、やっとあの人の思いに応えることができた。その思いが、ただ涙を溢れさせた。

そして2006年、自殺対策基本法ができた。
ライフリンクを立ち上げた当初から清水さんはこんなふうに語っていた。
「自殺対策というのは、自殺を防ぐことじゃない。生きることを支援することなんです」
そしてその思いはそのまま、自殺対策基本法に盛り込まれた。

「自殺対策基本法 基本理念 二条
自殺対策は、生きることの包括的な支援として、全ての人がかけがえのない個人として尊重されるとともに、生きる力を基礎として生きがいや希望を持って暮らすことができるよう、その妨げとなる諸要因の解消に資するための支援(以下略)」

基本法の冒頭に「自殺対策」を、「かけがえのない個人の生きる力の支援」としたのは、当時としては画期的だったのではないか。
清水さんたちライフリンクは早くから自殺は、「個人の問題」ではなく「社会の問題」であると提起してきた。今から20年前に、年間3万人の自殺者数が14年連続する現実の重さの中で、3万人という数の統計ではなく、そこに生きようとして生きることができなかった一人ひとりの人生の無念に向き合い、だからこそ、「生きることを支援する」とした。あの時代性の中での先見というべきだろう。

2006年、自殺対策基本法ができたこの年は、トリノ五輪での荒川静香の金メダル、イナバウアーが流行語になり、投資ファンドが席巻したライブドア事件が起き、騒然とした世情の陰でこの辺りからこの国の人口増加はピタリと止まり、2008年をピークに今度は静かに、そして急速に日本の人口は潮引くように減少に転じていく。時代の潮目が変わっていったのである。

あるいは見方によればこの頃から、社会から「生きる力」がじわりと失われていく。奪われていった。
そうした中で、ライフリンクの清水康之さんたちは、「かけがえのない個人として、生きる力を基礎として生きがいや希望を持って暮らすことができる社会になっているのか」と、渾身をもって、社会に問いかけたのである。

ライフリンクができて20年、その問いかけは今や普遍の響きを持ってこの社会に打ち出されている。それは当時よりはるかに切実な響きを伴っている。
自殺者の数は、2015年に15年ぶりに3万人を下回ったが、今なお依然として年間2万人が自ら命を絶っている。その自殺死亡率は先進7カ国中、最も高い。

しかしより切実なのは、この国では若年層の自殺が減っていないことである。
とりわけ、10代という若さで自ら命を絶ってしまう子供が増えている。内閣府の令和4年の「子供・若者白書」によれば、2020年の15歳から19歳の死因の約半数が自殺だった。G7各国での10歳から19歳の死因で、自殺が1位になっているのは日本だけである(NPO キッズドア)。
子供達が、若者が、自ら命を絶ってしまう。私たちの未来が失われている。

自殺対策基本法ができて今年で18年。そして今年、共生社会の実現を推進するための認知症基本法が施行された。
社会を引き継ぐようなふたつの基本法の存在は、時代の不思議な符号のように思えてならない。
自殺対策基本法と認知症基本法は、時代を貫くようにして通底するメッセージを発している。
そこにあるのは、人々の深い絶望を共有することでしか希望は見えてこないと言うことだ。希望はどこからか舞い降りてはこない。

認知症も自殺対策もともに、「課題」と「解決」に閉じるのではなく、私たちの社会の普遍の、暮らし、いのち、人間の尊厳、人権を中心に置き、そこから「生きる」ことを「ともに生きる」とする共生社会の実現の推進をめざす。

どんな深い暗闇でもじっと目を凝らせば、やがて見えてくるものがある。そのようにして自殺対策も認知症も、聞こえてこなかった遺族の声を聞き、語ることができない死を語り、そして奪われた自分を取り戻すようにして認知症当事者が発信し、今、この社会を変えようとする力を結集させている。
この社会はいく筋もの流れをひとつにして、今、「共生社会の実現」という大河に合流していく。涙を振り払って歩み出した自死遺族も、高齢者も子供も若者も、認知症であろうとなかろうと、誰もの「いのちの共生社会」へ。

清水康之さんは口癖のようにして語る。
「社会は変わる。それには、変えることができると信じる人々がいることだ」、私もそう思う。希望はどこかにあるのではなく、この社会の現実を変えようと動く人々の中にすでにある。
そして、かけがえのない個人のいのちと暮らし。「変えてはならないもののために、変え続けなければならないことがある」、これもまた清水康之さんの口癖だ。

「久しぶりにお会いしましょう」、清水康之さんがいった。
坂本龍馬が、路地裏の隠居に会いに来るようなものである。

|第296回 2024.10.17|

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