体験談〜本人の声、家族の声〜

認知症の人と家族の会 
会報誌「ぽ〜れぽ〜れ」

2020年11月号(484号)

ー お便り紹介 ー

気持ちの休まる時間滋賀県・Dさん 男

妻がデイサービスにお世話になり、3年目を迎えます。最近になり、送迎バスに笑顔で乗れるようになりましたが、新型コロナウイルスで事業所が休止にならないか、不安な毎日です。
私80歳、妻79歳の在宅介護です。月曜日〜金曜日の5日間の午前9時〜午後4時の時間が気持ちの休まる時間ですので、コロナウイルスの早い終息を祈ります。

認知症の方が暮らしやすい環境に…徳島県・Eさん 女

会社の地域貢献の取り組みとして、高齢者支援に関わる活動をしています。キャラバンメイトとして1年活動も行いました。今後、地域の高齢者の方、認知症の方々やそのご家族が、より暮らしやすい環境になるような取り組みができるよう、認知症の理解を深めたいと思います。

忘れてもその人の人生は消えない山形県・Fさん 女

先頃95歳の父が「多臓器不全」で亡くなりました。8月15日、肺炎の疑いで入所施設から病院に搬送、一時小康状態となり、回復に向かうか…?と思われましたが、入院より半月余りの9月2日、自然に呼吸が止まりました。
「家族の会」を始め、行政や様々な方々の努力によって、認知症を正しく理解しようという動きは、広がりつつありますが、「認知症になったら人生おしまい」「認知症の人は何も解らない、感じていない」との見方は、まだまだ社会の中には沢山あり、介護の専門職でさえ、そのような言葉を口にしたり、そのような姿勢で介護にあたるという、残念な現実に度々直面します。
入所先の施設でも「お父さんに話しかけても反応なしです」「認知症は進む病気、いつまでも元気でなんて望まない方が良いよ、諦めた方が楽になる」等など…。その度に「コミュニケーションが取れなくなってしまった父だけど、父はちゃんとわかっている、感じている」と悔しい思いになり、反論もしてきました。
一番辛く情けない思いになっているのは父本人、何とか自分の人生に自信を持って最後まで生きてほしい…との思いで父の95年史を大急ぎで作成しました。「昔のことはすっかり忘れてしまっても、95年間、本当に全力で命を燃やして生き抜いた立派な人生だったんだよ」 と言ってやりたかった。
亡くなる3日前の面会時、その「95年史」を父に見せ、前述のように伝えると、「もう何を話しかけても反応しない」筈の父が、目を開け、「あー」と声を出し、しっかりと領いたのです。父は、自身の95年間を振り返り、安堵して旅立っていったのだ…と思っています。「忘れてもその人の人生は消えない」、一人一人の尊厳が大切に守られる社会になるよう、仲間の皆様と一緒に微力を尽くしたい。

ー 私の介護体験談 ー

「ピック病」の母の思い出福島県支部 70歳代

母が旅立って1年が過ぎて

平成31年4月に母が天国に旅立ってから1年が過ぎました。母の部屋は介護用ベッドがなくなっただけですべてそのままです。箪笥や押し入れの中を片付けようと服等を出すたび、母の匂いがして涙が止まらなくなり一向に片付きません。
母の異変に気付いたのは、平成15年の頃。非常に起伏が激しくなり、目を三角にして怒り狂い、また魂が抜けたようにボーっとしていたり…。受診の結果、前頭側頭型認知症の一種の「ピック病」と言われました。人格が崩れ、進行が早く、最後は廃人になる。介護が難しく家で看るのは無理だからと精神科の病院への入院を勧められました。一般病院と違い、精神科の病院は薬を多く出せるから静かになりますと言われ私は決心したんです。大切な母は自宅で看ようと。

無我夢中の在宅介護

初期の頃は、記憶力が保たれ物忘れも無く文字も達筆でこれが認知症なの?と思っていました。しかし、次第に本を読んでも理解が困難になり、ますます感情のコントロールもできなく、道徳上の社会通念も分からなくなりました。突然激怒して騒ぎ出し、そのたび、私は外へ逃げて母の気持ちが静まるのを待っていました。別人のようになる母のことを主治医に聞き、本を読み、それでも対応策が分からず、自分で気が付かないうちに私自身がうつ病になっていました。母の診察のたびに病気の説明を受けたからか、母を連れて死にたいという思いはいつの間にか消えていました。数年たった頃から、母は穏やかになり普通の生活を送ることができるようになりました。平成23年、震災の1カ月前に、2泊3日のショートステイから帰ってきた母は、車イスに乗せられ、立つことも歩くこともできなくなっていました。動くのは、首と右手だけですべて介助が必要になり、盆も正月もなく看護師さんやヘルパーさんが毎日数時間おきに来てくれましたが、大量に出る洗濯物と格闘をしていました。

瞼に浮かぶ母の笑顔

医師の指導で作った食事のお陰か8年間寝たきりでも、床擦れもなく血液検査も良好。「私、百まで生きるからね、ありがたいありがとう」が母の口癖でした。一緒に童謡を歌っては、楽しいねえと言ったり、発病した頃には考えられない穏やかな生活でした。
発病して15年が過ぎた頃から自然と食が細くなり、98歳の誕生日を目前にして旅立ちました。後半はいつも「私は幸せだー」と言っていたので母なりに本当に幸せを感じていたのだと思います。「ピック病」の診断を受けた人が少ない為か、病気のことを知らない方が多く、特有の言動や行動等を理解してもらえないことが多々あります。特にヘルパーさんや施設の方に「ピック病」を理解していただけたら、本人も介護者も救われると思います。
今、瞼に浮かぶのは「楽しいねえ」と言っている母の笑顔です。

※ 会員様からのお便りを原文のまま掲載しております。