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認知症の人と家族の会
会報誌「ぽ〜れぽ〜れ」2025年2月号(535号)
ー お便り紹介 ー
11月号の大人用の紙パンツを読んで大分県・Cさん 女
大人用のパンツは、私も最初は色々な物を買っては試していました。
ある日デイケアの人から「Lサイズを買ってみては」との事でした。それをはかすと、ぴったりでしたが、中のパットは友達に聞いて、5回分〜6回分吸収のものをして夜用にしています。
大きなおねしょシーツは敷いてその上に主人を寝かしています。冬になると汚すことが多くなり服を着替えさせてたりするのが大変です。
紙パンツ用等のその他含めた用紙を市の方に出しましたが、市の方もいろいろな条件があるのでしょう。だからもらえる物ももらえない事かな?
とにかく安い時に買うか、年金を貰った時にいろいろ考えて買っています。いろいろな制度があるけどむずかしいです。
主人とともに…島根県・Dさん 女
主人と小さいながら会社を経営し、定年後は二人で趣味、旅行とゆっくりと暮らすのが夢で頑張って来ました。71才になった頃、話すこと、やることに、違和感を感じるようになりました。病院へ行くとアルツハイマー型認知症と診断され途方にくれました。オレンジカフェ家族の会にご緑を頂き、アルツハイマー型認知症について、少しずつ理解出来るようになりました。徐々に認知症は進みじぶんの家に居ながら家に帰ろうと言ったり、此処があんたの生まれた家だと説明しても、違うと言って聞きません。よし!じゃあ、あんたの言う家に行ってみようと道案内をして、私が運転して、主人の言う家に出発する。この道を右、次左と道案内するが最後には我が家にたどり着く。本人はそれで安心するということが分かりました。又家に帰ると言えば「ちょっと待ってね、これだけ用事を済ませたら帰ろうね、今日はビールを飲んだから車は運転出来ないからあるいて帰ろうね」と言えば「じゃあ、今日は此処にもう一晩とまろうか」と言い出します。「それもいいかもね」と答えると納得するのか寝る支度をします。夜中のトイレの場所が分からず、失敗を繰り返すこともあり、今は紙パンツをはかせるようにしています。風呂上がりパジャマのズボンの上に紙パンツをはくこともあります。着る服もちぐはぐで笑うしかない時も多々あります。今は要介護2で週に3回送り迎えしていただき3時間位リハデイに通っています。本人も楽しみにしている様子ですが、何をしたのか聞いても何も覚えていません。けれども笑顔で出て行き笑顔で帰ってきます。皆さんにご迷惑をかけながらも、支えて頂き有り難いと思っています。これから先、認知症は進んでいくことと思います。これがベストだという介護の答えはなく、私も心の余裕がないまま、多くの人の助けを借りながらの日々ですが、主人とともに歩んでゆこうと思っています。
父の介護を振り返って埼玉県・Eさん
振り返ってみると、(父の)心臓の疾患にもっと早く気づけなかったものかと思われます。また令和5年の1年間で認知症が急に進み、その対応、例えば紛失したものの再発行など事務的なことに手間を取られてしまい、本人の気持ちに寄り添っている時間が無かったことも悔やまれます。父は認知症になってからも性格はほとんど変わらず、嫌なことをすぐ忘れてしまうせいか穏やかなものでした。(中略)幼少時からずっと同じ場所に住んでいたためかもしれません。またもともとすぐ感情をあらわにし、思ったことをぱっとロに出す性格だったからかもしれません。父の介護に取り掛かるのが遅くなってしまった一番の理由はなんと言ってもコロナ禍のせいです。そうでなければもっといろいろなことに取り組めたでしよう。母の介護を始めた時と比べると、保険外のものも含めてさいたま市内で頼るべき事業所は本当に増えたと感じました。
ー 私の介護体験談 ー
義母との暮らしの中で気づいた、いくつかのこと大分県支部
〜義母の異変と認知症の発症〜
10年少し前になりますが、義母は若年性認知症を発症しました。やっと子育ても終わり、仕事も辞め、仲の良い友達と旅行を楽しんでいましたが、ある日、旅館の大浴場で自分の下着類が分からなくなってしまいました。
お友達にしてみれば「これは大ごとだ」ということで、それからというもの、母は旅行に誘ってもらえなくなってしまいました。お友達にはお友達の「何かあったら責任が取れない」等の理由があったと思います。しかし、義母は「迷惑をかけたら申し訳ない」と、自分から「行きたい」と言えずに引きこもるようになってしまったのです。その時、私も子供が小さかったため、義母の気持ちを汲んであげることができませんでした。
〜地域でのエピソード、優しい配慮に感謝〜
当時、義母は義父と二人暮しだったのですが、眼を離したすきにいなくなってしまいました。その頃は近所の人も、義母のことを「認知症じゃないの?」と気づいてはいましたが、はっきりとは言わないという状況でした。
義母は結局、近くの小学校へ行ってしまっていたのですが、義母を見かけた校長先生が「おばあちゃん、どうしたの?」と声をかけ、家まで車で送って来てくださったのです。この時に感謝したのは、校長先生がすぐに「警察へ」と言わず、母の話を聞いてくださったこと、またその後、児童たちに積極的に認知症の人との関わり方を話してくださるようになったことです。
〜認知症を伝え、地域が変わり始める〜
そのことがあってから、義父も義母のことを隠さず、「妻は認知症です。一人で歩いていたら声をかけてください」と、地域の人に頼むようになりました。地域の人たちも快く応じて下さり、本当に助かりました。
また義母のことを理解してくれる人も増え、義母を中心として地域の交流が深まったという話も聞きました。お互いがお互いを心配し、声掛けをするようになったという話もあり、公表したことも無駄ではなかったと思えました。
〜できる時にできることをし、後はプロに任せる〜
義母の認知症の症状により、家族全体が疲弊してしまったことがありました。私も幼い長男と泣きわめく次男を抱え、どうにも仕様がなくなっていました。その時、精神科の先生が「双方によくないから、離れましょう」と、入院を勧めてくださったのです。入院させるにあたり、義母の友達からは「あんな所に入れて」とさんざん言われ、やはり傷つき葛藤しました。しかしあの時があったから、今、穏やかに過ごせていると思います。
地域の方に支えられ、ある程度家で過ごし、しかし、その時の状況で施設にお世話になる。地域でも家庭でもできる時にできることをし、後はプロに任せる、そういう選択もありかな、と思っています。