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認知症の人と家族の会
会報誌「ぽ〜れぽ〜れ」2024年7月号(528号)
ー お便り紹介 ー
私も皆さんも…大阪府・Bさん 女
若年性認知症の母が亡くなってもうすぐ二年になります。母が胃ろうになってからその選択がよかったのか、でも諦めきれなくて、亡くなるまで心が壊れそうな毎日でした。亡くなってからもずっと考えています。そのような気持ちをお便りに書いてから、若年者認知症の方や家族、胃ろうの方の家族の方のお話をよく目にするようになりました。以前より掲載はあったのかもしれませんが、読むたびに心が軽くなるような気がします。みなさんも悩まれているんですね。
若い人達に期待佐賀県・Eさん 女
介護福祉士の人材確保を心配しています。特に若い人たちが認知症に関心をもって支援する仕事に志を持ってほしいです。
共生社会の鍵は若者が担っています。今後も継続的に若者へのアプローチをしていただきたいです。特に介護職員確保について発言をお願いします。
初めてのつどい京都府・Gさん 男
シングル介護4年目。ようやく母の介護にも慣れてきました。他の人達はどんな介護をされているのだろうと、思い切って家族のつどいに参加し、皆さんの日常介護を聞かせていただきました。私の母は着替えからトイレ誘導に至るまで全介助が必要ですが、他の方のような徘徊やモノの紛失といったトラブルは幸いにしてありません。場合によっては、私よりもっと大変な人も居るんだなぁと痛感しました。
「もっと早い段階でつどいに参加していたら良かったのに」としみじみ思いますが、介護当初を振り返ると、とにかく目の前の介護で頭が一杯で、それ以外の事は全く目が届かなかった毎日でしたので、どうしようも無かったかな?と納得してしまいます。
帰り際、主催者の方から「また来て下さいね」と暖かく声を掛けていただき、次回のつどいが今から楽しみです。
ー 私の介護体験談 ー
終末期を考え、思うこと東京都支部
終末期にさしかかると、患者さんの生活環境によっては、家族にとって介護に加え看護の割合が大きくなることが考えられます。同時に、医療処置において本人に代わって、家族が判断や選択を求められる場面も想定されます。その事を考えると、やはり家族の中で主たる介護者に位置付けられる人が、今後、その役割を担うことになろうかと思われます。言うまでもなく、これは家族や周囲の協力と支援があってこそ受け入れることができる役割なのです。
認知症の本人に代わって家族が選択を迫られる現実に直面した時は、誰しもが迷い、そして、下した決断が正しかったのかと悩み苦しむのは当然のことです。一つの例として、「胃ろうの造設」をどう考えるかが挙げられます。選択を巡って家族の間で同じ考えを共有することは、 難しい課題の一つであると思いますが、相互理解を得るには、まず本人が何を望むかを考え、それを踏まえつつ冷静かつ丁寧に話し合うことが何より大切だと思います。もし、疑問や腑に落ちない点が浮上すればそのままにせず、医師から納得がいくまで充分な説明を受けることで す。家族の共通認識が相互理解に繋がり、そしてやがて互いに納得した見解を導き出していくものだと思っています。
逡巡の日々、あるとき私が病院の医師や相談員の人から受けた助言を是非届けたいと思います。ひとつは、『決定した選択に間違いという言葉は存在しない』つまり、これは正誤で括れるものではないということです。
そして、『いつでも軌道修正はできる』自分の判断に迷いや矛盾を感じたら、先ずは医師に素直に自分の考えを伝え、相談することが大切だと思います。この二つのメッセージが、ずっと私のこころを支え続けてくれました。
最後に、看取りを終えた今思うことは、どうすれば本人、主たる介護者、家族が誰一人として孤独の中に置き去りにならず、終末期を心穏やかに過ごせるのか。その間、本人や家族にとってより良い日々を実現するためには、本人と家族のケアに何が求められており、また何が必要なのか。
医療や福祉、社会環境が、認知症という病気がもたらす「特性」の本質を見誤ることがなく支援できれば、その実現の可能性に一歩近づくことになるかもしれません。