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認知症の「希望大使」任命イベント 〜希望を引き継ぐ〜

コラム町永 俊雄

▲ 希望大使の皆さん。左から、渡邊康平さん、丹野智文さん、春原治子さん、橋本岳厚労副大臣、藤田和子さん、柿下秋男さん。なんどもカメラの注文に応じて向きを変え、終始晴れ晴れとしていた。希望大使は、希望を引き継ぐ。

1月20日に都心で認知症の本人大使「希望大使」任命式のイベントがあった。
多くの関係者、そして認知症当事者も全国各地から集まり、メディア各社のカメラに囲まれた晴れやかなイベントだった。

大使に任命された当事者はもちろんだが、とりわけ見守る家族や長く支援に関わってきた人々にはひとしおの感慨が湧いたにちがいない。
あいさつに立った認知症の人と家族の会の鈴木森夫代表は、1月20日が奇しくも40年前のその日、現在の家族の会の前身「呆け老人を抱える会」が結成された日であることを述べた。
雪の降る凍てつく京都で、認知症の人と家族が互いを抱えるようにして集まり、その当時、支援する福祉も医療も何もない中、ただ認知症の人と家族が身を寄せ合って、家族の会が生まれたのだった。

しかし、家族の会が生まれても長く認知症は闇の中を歩んできた。
2012年に厚労省のプロジェクトチームの出した報告にはこう記されている。
「かつて、私たちは認知症を何も分からなくなる病気と考え、徘徊や大声を出すなどの症状だけに目を向け、認知症の人の訴えを理解しようとするどころか、多くの場合、認知症の人を疎んじたり、拘束するなど、不当な扱いをしてきた」(2012/厚労省・今後の認知症施策の方向性について)

そこから自らを奮い立たせるようにして、一人、またひとりと認知症の人は扉を押し開き、光の中に歩みだしてきたのだ。
今、壇上の五人の認知症の希望大使は、カメラに囲まれ、人々の笑顔に包まれて晴れ晴れと厚労省副大臣から授与された任命証を掲げた。
認知症の「希望大使」は、その晴れやかなネーミングの背景に、認知症の長く重い負の歴史をひきずってきたのだ。そして、この日、希望大使が生まれた。その意味を改めて考えたい。

去年の認知症施策推進大綱で施策の柱として「本人発信支援」が打ち出され、そこには「認知症の希望大使を創設する」と明記された。
かつてその存在を社会から見えないものとし、否定してきたその国から、今度は、国の重要施策の一翼を担うことを任命されたのである。

かつて、いくもの鍵のかかる部屋に垂れ流しのままひっそりと過ごしていた老婆、ガランとした施設の部屋のベッドに縛られていた老人たち、老いの過程で地域と人間を奪われてしまった認知症の人たち。時空冥界を超えて、もしもその人々がこの場に立ち会っていたなら、心中、ふるえるような思いであったろう。よくぞ、ここまできた。よくぞ、想いを受け継いでくれた。ようやく、「私」を取り戻せた。

会場に満ちる華やかに明るく弾む司会の声と光が急に遠のく思いで、その時私は、そうした人々の無念を忘れてはならないと思った。

希望大使として挨拶した藤田和子さんは、希望の重さを抱きしめた。
藤田さんは、冒頭に「この日が共生社会の幕開けになることを願っている」と切り出した。が、そこから一気に晴れやかな希望に転じることはなかった。言葉を継いで語ったことは、イベントの浮き立つ空気にズシリと切り込んだ。藤田さんはこう語ったのだ。

「今なお認知症の人一人ひとりが絶望的な思いの中にいる。この社会にはまだ根強く差別と偏見が残っている。私は今、気力をふりしぼってこの場に立っている」
何かにつき動かされるようにして、彼女はこう訴えたのである。

希望という言葉自体に実体はない。希望というのは言って見れば「取扱注意」の言葉でもある。根深い偏見に満ちた現実に向かって、希望と唱えればとりあえずその現実を覆い隠すような錯覚に陥る。それはまるで塵芥に満ちた荒涼とした原野も、希望という新雪に覆われれば、輝くような美しい風景に見えるようなものだ。
希望と唱えれば、何かが変わるわけでもない。希望に力を注ぎ込むのは、現実を直視する力だけである。

おそらく、藤田さんは、今の自分の背後に連なる、涙にじっとりとまみれ輝くことなかった希望への思いを引き継いでいる。
希望は引き継がれる。ある時は途切れ、か細くしか語られなくても、誰かが手渡してここまでつながった。任命イベントで語った何人もの当事者が、希望をリレーすると語った。それぞれが、自分の任務を「私はバトンを渡された者だ」と誇らしげに語る。
バトンは渡され、引き継がれ、それが希望のリレーとなって続いていく、と。

そのファーストランナーが、オーストラリアの先駆者、クリスティーン・ブライデンだ。
彼女は、このイベントにビデオメッセージを寄せてくれた。私は当初、ビデオメッセージというのは、この手の式典によく使われる儀礼交換だろうぐらいに思っていた。
が、ちがった。

彼女のメッセージに「希望」という言葉は、「希望大使」という固有名詞以外には、最初の、「大使の皆さんはみんなの希望であり、」というただ一ヶ所しか現れない。
あとはまことにおだやかな言葉の連なりなのだが、そこにはぎっしりと希望への強い意志が込められている。想いの詰まった名メッセージといっていい。

▲ オーストラリアの認知症当事者、クリスティーン・ブライデンがビデオメッセージで語りかけた。この人抜きに、この国の認知症当事者と、認知症の活動は語れないだろう。

彼女はメッセージで自分を語った。自分の現在を語った。
徐々に認知機能の衰えを自覚すると語り、言葉が出てこなかったり思い出せないことを率直に伝え、しかし、そこには一緒に過ごす家族の存在が、どんな困難も力に変えていくと、4人の孫に囲まれたファミリーポートレイトで、一人一人の孫の名前と年齢を、輝くような喜びに満ちた語り口で紹介していく。そこにいるのは、家族と共に自分の人生を歩んでいる、どこにでもいる当たり前の祖母であるクリスティーンだ。

そして、こんな報告もあった。どこか誇らしげなクリスティーンが微笑ましい。
「それから博士号も取得しました。本当に大変でしたが最後には博士号を取得することができました」
誰もがこのような人生を送ることができる。そのようになってほしい。
クリスティーンは、「認知症」も「希望」という言葉も使わずに、ひとりの「人間」として希望のありかを確かに示し、バトンを手渡すようにして、私たちに届けたのである。

希望大使は何をやるのか。それは私にはわからない。また、そのことを求めようとは思わない。希望大使のあなた方はそこにいて、自分らしい人生を当たり前に暮らしていることが大切なのだ。あなた方は希望大使の責務を感じなくていい。責務は私たちに引き継がれた。

私たちの共同体は疲弊し、傷ついている。希望という使い勝手のいい言葉を連発しても容易に回復はしないだろう。では希望は何のためにあるのか。
それは多分、個別に支援する関係だけに消耗するのではなく、私たちの共同体全体が失った原初の生命力そのものを回復するしかない。
挨拶で東京都健康長寿医療センターの粟田主一氏は、この希望大使への期待として、「誰ものただ一回きりの人生を何より大切にする、そのことに絶対的な価値を置く新たな文化を創ること」とした。
そこに「希望」を掲げる。希望は常に失ったものを取り戻す光芒としてある。近代では、それを権利とも呼んだ。
かつての認知症の人々の奪われた人生、暮らしの輝き、「わたし」、それらのことどもの希望を取り戻し、新たな文化の創造へ引き継ぐ。それが希望大使だ。

今、ここに希望大使が任命された。イベントで終わる話ではない。認知症の話だけでもない。私たちの社会を次の世代、まだ見ぬ生命に引き継ぐバトンを、私たちが手にしている。

▲ 壇上の希望大使が会場に呼びかけて、この日に全国からやってきた認知症の人と共にエールを交わした。希望を表現した光景である。

|第128回 2020.1.28|