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スフィンクスの謎 〜認知症とケアの力〜

コラム町永 俊雄

▲平安京の四神に、青龍、白虎、朱雀、玄武があり、正月の平安神宮で白虎の手水舎に出会った。都の聖獣である。北京五輪では今年の干支の虎があちこちで見られ、文化の流れを感じる。スフィンクスの代わりということではないのですが…

このコラムも200回を超えた。第一回が2008年7月だからもう14年間続いているわけだ。
コラムタイトルは認知症EYESだから、当然、認知症がテーマなのだが、200回を超えて描いたこの社会の認知症を改めて振り返ると、そこには大きな変化を見て取れる。

すでにこの社会での認知症は、認知症単体では語れない。認知症を語ることは、医療や福祉の枠組みを超えて、私たちの生きること、老いること、死ぬことといった普遍に通じている。

この社会に老いることや死ぬことと同じように紛れもなく「認知症」があること、そのことを引き受ける社会とはどのような社会なのか。ウイズコロナであるとか、ともに生きるということのゆくえを指し示すようにして、認知症の社会がある。それは排除される社会ではなく、豊かに成熟していく新しい時代を拓く力となっている。
新しい時代を拓くには、何が必要か。例えば認知症のまなざしでみれば、それは「役に立つかどうか」という語り口だけで社会を見ないということだ。

新生児微笑という言葉がある。天使の微笑みとも言われる。赤ちゃんが産まれて間もない頃、時ににっこりと沁み入るような笑顔をうかべる。凍てつく大地をも溶かすような春の陽射しの微笑みだ。誰もの心も和らげる。それが髭面の極悪人であっても、その笑顔を覗き込んだらとろけるような気持ちになる。そんな微笑みである。

新生児医療では、これを嬉しいからといった何かに反応しての微笑みではなく、単なる不随意運動であり、生理的な笑みに過ぎないとするが、私はどうもそうも思えないでいる。

哺乳動物の多くは生まれ落ちて間もなく自分で立ち上がり、母乳を吸い始める。が、同じ哺乳類でも人間だけは、産まれた赤子は1年間は親の手厚い庇護がなければ生きてはいけない。お腹は空いていないか、熱はないか、おむつは濡れていないか。親は自分の持ちうる想像力と関心と共感の全てを注いで幼な子を見つめ抱きしめ、いのちを支える。

新生児微笑とは、赤子の遺伝子レベルで埋め込まれたその最初の力なのではないか。その微笑みに接した誰もが思わず手を差し伸べさせるその力を、いのちの力として天は生まれ落ちた赤子に与えたのではないか。

赤子だった誰もがそのようにしてはぐくまれた。私たちは誰かの助けがなければ、今ここに存在すらしていない。私たちは誰もがひとりでは生きていけない存在としてこの世界に現れた。
無垢の人間の「弱さ」という力。誰もがその力とともに生を受けたはずなのだが、それはこの社会の中を突き進む中で削り落とされていく。

さて、ここで話は跳躍する。
よく知られたスフィンクスの謎かけがある。
「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足で歩く、この生き物は何か」
スフィンクスは通りかかる旅人にこの謎を問いかけ、答えられない旅人を次々と食い殺した。
答えたのがオイディプスだった。
「それは人間だ。赤子の時は四つん這い、長じて二本の足で立ち、老いては杖をついて三本足で歩く」

私たちの社会は、ひとりの人間の人生を朝と昼と夜というような連続する時間の中に描いていない。
人生を切り分けて、子供は未熟であり、高齢者は衰退であると捉える。
誰もの人生のイメージは、二本足で歩くというメタファーが示すような、意気揚々として明るく元気で若々しく、「役に立つ」生産年齢期の自分だけを、つまり、輝かしい昼の時間だけを思い描いている。
それは人生の一部分に過ぎないのだが、そこには、障害や病や認知症の自分を排除して、この社会の生産性や効率に取り込まれた能力主義の投影がある。

赤子の微笑みと成長には誰もが希望を感じる。それはこの子らが私たちの共同体の仲間となる共感があったからだ。しかし、人々が有為の人としてこの経済社会の巡航高度を突き進む中でいつの間にか、共同体の共感は社会保障財源と制度に置き換わり、高齢期の下降局面では社会の負担となる「衰えた人」となっていく。

生まれ落ちたときの根源的な弱さの自分の記憶は置き忘れられ、強い自分の自己演出の人生観からは、これからたどる下降していく高齢期にあるのは怯えでしかない。
現代の私たちは、黎明の赤子の朝を忘れ、黄昏を歩む高齢の闇に怯え、人間の生の全体像を俯瞰できないまま、スフィンクスの謎に答えられないでいる。

ただ、かろうじてこの社会には、人生の黄昏を歩く人間のための「杖」がある。ケアの力である。
私たちの人生は、新生児からの歩みを、フィルムを逆転させるようにして、老年期に再び逆にたどっていく。頂きを目指す人生は、どこかの地点から長い下り坂をたどる。
豊かに老いていく、そのように語りたいが、しかしそこに伴う喪失から目をそらすわけにはいかない。

失われていく自分。失われていく家族と友どち。失われていく自分に関わる記憶。
人は誰でもどこかの時点から喪失の旅路を歩む。どこかの時点から、人はかけがえのないものを次々に振り棄てるようにして喪失を歩む。
子らは人生のどこかで親の喪失に出会い、ひと組の夫婦は、長い旅路のどこかで伴侶を失う。それが世界の秩序であり、摂理でもある。

喪失は悲哀である。生きることには避けがたい悲哀がある。そのことをごまかすことなく、きちんと向き合い受け入れ、喪失という悲哀を抱きしめることで、日々の暮らしのかけがえのなさや、日の輝き、ほおをなぶる風のいとしさ、そんな自分を取り戻すことができる。

認知症になることを地域によっては、童(わらし)がえりと称したが、それは退行ではなく、生まれ落ちた無垢の人間に立ちかえることである。懐かしい故郷に戻っていくようにして人間を取り戻していくのが童がえりなのである。豊かに老いていくことの真実はそこにある。

そこに伴走するのが、認知症ケアなどの高齢者ケアの力だ。
あの新生児微笑に笑みを返すようにして、そこでのケアは、喪失から豊かな何かを生み出していく。失われていく過程から生み出していくのは、「人間」を取り戻すことだ。生産性や効率の発想からはるかに離れた地点で、人が人を思う「杖」となってともに歩んでいくケアがある。
そのことがどれほどのこの社会の勇気となっていることか。
認知症ケアは、社会をケアする。

スフィンクスの謎に、オイディプスは力強く「それは人間だ!」と答えた。
謎を解かれたスフィンクスは、自ら千尋の谷に身を投じて滅んだと、ギリシャ神話は物語る。

私たちは、スフィンクスの謎に、「それは人間だ!」と答えられるのだろうか。
それとも、答えられず立ちすくんだまま、時代という怪物、スフィンクスに食い殺されてしまうのだろうか。

|第201回 2022.2.14|

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