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「認知症と共に生きるまち」とコモンズ

コラム町永 俊雄

▲今年も「認知症とともに生きるまち大賞」の募集が始まっている。下段は、去年のNHKスタジオでの「まち大賞」の放送収録の時の選考委員達。今年は全国からどんな取り組みが寄せられるのだろう。

今年も第6回の「認知症とともに生きるまち大賞」の募集が始まっている。
このコロナの事態が始まった2020年には、果たしてどれだけの応募があるかと気を揉んできたが、確かに応募数は以前に比べれば減ってはいる。しかし、このコロナの日々を経て、これまでのまちづくりの概念を組み直し、新しい地域社会の姿を生み出そうとする確かな変化も見られている。

それはこの「まち大賞」だけに限った話ではない。
地域社会で「コモンズ」という新たな時代の子が産声を上げている。地域の人々がそうとは意識していないが、あちこちで時代の閉塞を打ち破る「コモンズ」のムーブメントが起きている。

コモンズ(commons)とは、英語のコモン、共通、共有から来ていて、元々は前近代イギリスの誰の所有でもない広大な放牧地を指し、そこを住民が自由に利用できる自治的な管理が行われたことを指す。
日本でも、コモンズとしては「入会地」があって、これも所有権が曖昧なままに共同体での共同利用と管理の場であるとされている。

そのコモンズ(共有の空間)が今、注目されている。このコロナの日々の中で芽吹くようにあちこちで生まれているのだ。
全国各地の大学では、「ラーニング・コモンズ」ができている。学びのコモンズだ。
図書館の一角のオープンスペースに利用自由な机や椅子(多くは、メンバー構成によって自由に移動して構わない)、プロジェクター、資料検索手段などが備えられ、学生たちの主体的な学びのコモンズ、空間になっている。羨ましい。

そう言えば、私の遥かな学生時代、私の所属していたのが、とりわけ地味で小さな政治学研究サークルだったから、学生会館の一室は割り当てられず、仏文研サークルと詩人会というどれもまあ根暗な、弱小の三つのサークルが同居していた。

そこには黒いベレー帽に黒のタートルネック、黒のスカートに黒のストッキングという訳のわからない仏文研の女学生と、コーラ瓶の底のような分厚い近視メガネのむっつり無口な詩人会の学生と、人見知りの私がたむろしていて、やがてその女学生からは、アンチゴーヌの一節を意外に美しい発音のフランス語で朗読してもらったり、詩人会のメガネ男とは、互いの詩を交換して講評しあったりして、何か不思議な時間と空間だった。
あれはあれで、私の「学びのコモンズ」だったのだ。
もっとも、黒ずくめの女子学生からは、「私、愛のキャパシティがとても広いの。だからもう一人、キミくらい、なんとかなると思うわ」と、タバコの煙を吹きかけられてやたらドギマギしたことは今も鮮明に覚えている。どんな学びの場であったのか。

それはともかく、「学びのコモンズ」とは「学び合うコモンズ」でもあり、財政学者で元日本社会事業大学長の神野直彦さんによれば、スウェーデンが工業社会から知識社会に転換する時期には、国民教育活動としての「学びのコモンズ」が重要な役割を果たしたという。
ついでに言えば、神野直彦さんとは、現役時代「NHKスペシャル・セーフティネットクライシス」という番組の勉強会段階から教えを乞い、グローバリゼーションで推し進められた「市場拡大」と「政府縮小」の潮流に対峙する人間回復の経済について大きな学びを得た経験がある。

そうしたまなざしで見回せば、このコロナの日々で干上がった地域のあちこちで、清冽な灌漑水を注ぎ込む水路となったのがオンラインであり、その土壌に芽吹いたのが「学びのコモンズ」なのである。

私の知っているところでは、ケア現場や施設の専門職グループ、各地の地域包括、社協グループや、「介護崩壊を防ぐ」とした医療から介護職、研究者らの毎週の会合や、前回のコラムでも触れた認知症当事者勉強会など、いくつものオンラインの「学びのコモンズ」が生まれており、いずれも自由に呼びかけ集まり、誰もが参加でき、誰もの言説は尊重され、議論より対話を目指し、リーダーはいるが指導者ではなく、民主的な運営をし、真摯だけれど和やかな集いの場、「知の入会地」となっている。

「学びのコモンズ」は参加型民主主義の基盤であると言われるが、それは、この市民社会の側、具体的には地域住民、生活者の側からの主体的な参加によっているからだ。
これまでともすれば、「地域共生社会」とか「認知症と共に生きる」といった理念先行の枠組みから考え下していくと、どうしても社会現実の壁の手前に止まってしまいがちだが、コモンズという出入り自由な空間では、そこに暮らす人々の生活実感を織り上げるようにして対話が進んでいく。

それが今「まちづくり」と言うコモンズの生成につながっている。
NHK厚生文化事業団の「認知症とともに生きるまち大賞」のこれまでの受賞団体を見るとそれがよくわかる。
いくつもの取り組みで共通しているのは、まず地域に開かれた空間が設定され、そこに集う人々の自発的な取り組みが相互に作用し合い、有機的な自律性がうねり、「まち」というコモンズが出来上がっている。
2021年受賞の茨城県ひたちなか市の「ヒロさんの畑」であるとか、京都のチーム上京の「自宅ガレージが地域拠点」。2019年受賞の、新潟市のボランティア団体「まるごーと」の「農業用ビニールハウスは小さな共生社会」などは、学びのコモンズであると同時に、地域共同体としてのローカル・コモンズ、ないしコミュニティ・コモンズの姿と言っていい。

「コモンズ」とは新しい概念ではない。上記したように私たちも入会地のような、誰もが利用できて誰もの占有ではないとする共有空間を育ててきた地域の記憶を持っている。ただそこに、現代の少子超高齢社会や複雑性を再生させるための、ネットワークのスパイスをふりかけたのがコモンズである。「つながり」や「支え合い」という言葉を今一度内実化させたものと言ってもいい。

コモンズは、外に開かれているけれど、同時にその内には求心的な想いの核が据えられていて、開かれながら引き寄せるというこの緊張が、具体的で現実的な共同体の創造に直結させている。
コモンズに参加すると、その緊張感が身を包む。自分はここにいていいのだという感覚と同時に、ここにいていい自分はどのような自分であるのか、といった双方向から自分を見るような感覚だ。

その双方向の自分は、引き裂かれるとか、どちらかを否定する関係ではなく、そのどちらの自分も認めた上で、さらに自分自身を一段上に投げ上げる(投企する)弁証を生み出すのがコモンズの力と言っていい。二人の自分のそれぞれが、それぞれの新たな自分を見出す、そんなナレッジ(暗黙知)が秘められている。「学び」であり、地域力というものである。

私はこの「コモンズ」は、認知症と共に生きる社会への重要な役割を持つと思っている。
認知症当事者の発信を生み出してきたのは、地域社会のコモンズだったからだ。

それまで「何もわからなくなる」とされてきた認知症は、高齢化に伴って増加するという推計値の中だけの存在だった。それは、このコロナの日々の感染者数の構造と同じで、不可視化された怯えの対象とされてきた。その認知症の一人ひとりに名前と声を与え、世に押し出したのが「ともに生きる」とする地域の人々の「コモンズ」なのである。

コモンズは、「公」でもなく「私」でもない「共」の空間である。
そこでは、空間だけではなく時間も共にする。認知症とは、誰もの時間差の自分であり、当事者とは「生きることを共にする」全ての人の中にいる。
そして、それはそのまま、「認知症と共に生きる」という「コモンズ」になる。

今、「デメンシア・コモンズ」ともいうべき新たな地域システムが、まちづくりというブランドを借りて生まれつつある。私たちはそうした時代に立ち会っている。

▼これまでの受賞団体はこちら
NHK厚生文化事業団「認知症とともに生きるまち大賞」受賞団体

|第216回 2022.7.13|

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