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丹野智文の「ロンドンADI報告会」に参加する

コラム町永 俊雄

▲上段は、オンラインでのロンドンADI 国際会議参加の報告会のチラシ。下段は、丹野智文さんの報告が終わって、聴衆のスタンディング・オベーションの様子。左端にチラリと丹野さんの姿が写っている。

丹野智文を読み解く、といったことがこれから大切になるだろう。
たとえば、彼が決まって使う「笑顔で生きる」であっても、そのソフトな言い回しと彼の人柄が反映して、聴く側もついニコニコと笑顔になってうなずく。
そこにあるのは、これまで認知症にまとわりつくネガティブなイメージを払拭した新たなロールモデルとしての丹野智文の姿である。
このメッセージにどれだけの認知症当事者が涙を振り払って、世に出てきたことだろう。たぶん、丹野さんの言葉は当事者の傷ついた心を回復させる不思議な力を持っている。当事者ならではの共振する作用だろう。

しかし、認知症ではない人々が、この「笑顔で生きる」という言葉をどう聴いているのだろう。
なぜ、彼が「笑顔で生きる」と繰り返しているのだろう。「聴く」ということは受動ではない。そこに能動が機能して初めて「聴く」ことになる。「いいお話だわー」は、単なる消費であって、聴いたことにはならない。とりわけ当事者発信については特にそうだ。

なぜ「笑顔」をいうのだろう。それは丹野智文さんが、自分の認知症を受け入れたからだ。涙と不安をくぐり抜け、自分の認知症を受け入れて、新たな自分の人生を生き直そうと決意したからだ。それが「笑顔で生きる」ということなのである。聴く側は、自分自身とこの社会が認知症を受け入れる社会になっているのかを問いかけることで初めて、彼の「笑顔」の強い意志を「聴いた」ことになる。

そんなことを改めて思ったのは、先日丹野智文さんが「ロンドンADI報告会」をオンラインで多くの人に配信し、そこで丹野さんが参加したロンドンADIのプレゼンが再現された時のことだ。

ロンドンでのプレゼンの冒頭部分、それは、丹野さんが診断後の絶望の中から立ち上がった時の思いを語った部分である。彼はこう語った。
「私が選んだのは、認知症を悔やむのではなく共に生きるという道です」
まさに、丹野さんが、自分の認知症を引き受けた決意の言葉である。

だが、この言葉は実は彼は以前にも発している。
それは2017年の京都でのADIの開会式でのスピーチだった。そのスピーチで彼は同じ言葉を使っている。
「私が選んだのは、認知症を悔やむのではなく、共に生きるという道です」
2017年の彼のスピーチは、当事者としての彼のスタートライン、原点だった。5年後のロンドンで、再びこの言葉を繰り返した。なぜだろう。先駆的に当事者発進を担ってきた丹野智文が自身を確認するように発したこの言葉、
「私が選んだのは、共に生きる道です」
私は、これはあらためて丹野智文からの私たちへのメッセージではないか、そう思って聴いた。

ADI(国際アルツハイマー病協会)とは、アルツハイマー病と認知症に関する世界で最も重要で大きな会議の一つであり、その国際会議は毎年世界各国で開催され、日本でも2004年と2017年に京都で開催され、その度に認知症をめぐる施策や地域活動は大きく加速した。

そのロンドンADI国際会議は、この6月8日から10日まで開催され、そこに日本から認知症当事者の丹野智文さんが招聘された。丹野さんが語ったのは、日本の「認知症診断の重要性・よりよく生きる認知症当事者の視点から」と題する報告だった。
私はこれは画期的な報告だったと思う。

医療の側のいわば専権事項である「診断」について、当事者の側からの提案をしたのである。
これまで認知症の診断については、早期診断を成果とし、そのためには認知症初期集中支援チームと多職種連携の設定がされてきた。しかし、ここにあるのは、早期に医療介入することで認知症の初期段階での「進行と悪化」の回避と改善を目指そうとする危機管理的発想だった。

しかしこれを当事者の側の視点からすれば、診断の宣告が当事者にもたらすのは、深い絶望と不安なのである。昨日の自分と今日の自分に変わりはないのに、「診断」が下された瞬間、その人の人生は一変する。それまでの人生は奪われ、代わってそこには「認知症の人」のレッテルが貼り付けられる。そこにあるのは、なんの支援にもつながらない荒涼の「空白の期間」なのである。

診断直後のその人の不安と絶望に医療は、そもそも寄り添えるのか。
帰国した丹野さんが、8月7日にオンラインで開催した「ロンドンADI報告会」には、多くの人が参加した。報告会は、まずそのロンドンでの彼の報告の再現から始まった。世界の並いる研究者、リーダー、当事者たちを前に丹野智文さんは日本の認知症診断と当事者の取り組みを、いかに語ったのか。

動画を含めての、オンラインでのその報告の再現は臨場感あふれる堂々としたものだった。
丹野さんは、医療の根本を問い直すようにして当事者の側からの自分の関わる活動を語ったのである。
まず、診断で自分の人生の終わりを告げられたと、スライドには「Dementia =END(認知症=終わり)」の文字列だけが浮かび上がる。ゴシック体のその文字が叫びのように目に飛び込むが、しかし、丹野さんの語り口はあくまでも冷静である。

丹野さんは、当事者こそが診断後の支援に役割を果たすと語った。丹野さん自身、同じ境遇の当事者との出会いが、今の自分につながったことから語り始め、おれんじドア、院内ピアサポート、そしてリカバリー・カレッジと自分の関わる活動を紹介し、これこそが「認知症経験者」としての当事者でなければできない診断後支援であると、ここは力を込めるようにして言葉を重ねた。

丹野さんのどの取り組みにも実際の当事者の多くの笑顔が映し出されながら報告された。丹野さんの、この取り組みは自分一人ではなく、多くの仲間と当事者の人々の力によるものであるという思いからだ。
丹野さんのロンドンでのプレゼンの最後の言葉はこうである。

「世界の人たち、日本の人たちが手を結び、その中に認知症の人たちも参画し、一緒に「安心して認知症になれる社会」をつくっていきましょう」

終わるとロンドンADIの会場では、全員が立ち上がってのスタンディング・オベーションで讃えられ、その様子が、動画によってオンラインの参加者にも届けられた。

私は、このロンドンADIに参加したということ、つまり丹野さんにとってのロンドン体験というものは、世界の当事者たちとの交流によって、これまでの丹野さんの当事者としての自分の視野を一回り広げたのではないかと思う。

たとえば、まず「世界の人、日本の人たち」と呼びかけ、それからそこに「認知症の人たちも参画して」と続けている。これは実は当事者性の大きな意識変革である。認知症の枠内の当事者性ではなく、世界の人類にとっての当事者の参画の役割を明確にしたのである。マジョリティの課題に向き合う力としての認知症を宣言している。
だから、そこに続く結句には、「認知症になっても安心の社会」という認知症の課題性ではなく、「安心して認知症になれる社会」という普遍性ある新たな社会システムを打ち出している。

丹野智文さんは3時間にわたる出ずっぱりの報告会で、実に多くのことを語った。語ってなお語り足りないようだった。そして、何度も自身の当事者性を揺さぶるようにして問い直した。
当事者だけが正しいわけではない。仲間や友達の力がなくては当事者の発信はできない。
そして、関わる誰もが当事者なのだ、と。

ジェームス・マキロップとのエピソードにも触れた。ジェームス・マキロップは、世界で初めて認知症の当事者グループ、ワーキンググループを結成し、その初代議長となったスコットランドの認知症当事者である。丹野さんとはスコットランでも交流し、親密な世界の仲間の一人である。

そのジェームスと2017年に京都のフォーラムで再会した時、ジェームスは丹野さんにこう話しかけた。
「トモは、私の後を追いかけていると思ってはいないかい?」
丹野智文さんはすぐには答えられない。とにかく、ジェームスは世界の認知症活動のリーダーなのであり、当時の丹野さんは当事者として新たなスタートを切ってまだ間もない。ジェームスは、丹野さんの顔を覗き込むようにして、続けた。
「そんなことはない。トモは、一緒に並んで歩いている仲間なんだ」
この言葉を丹野智文さんは忘れたことはない。

その言葉は今、丹野智文さんが引き継ぐようにして、改めてこの社会に語りかけられているようだ。
「私は、悔やむのではなく、共に生きる道を選びました」
「一緒に並んで歩く仲間なんだ」
認知症であるかないかにかかわらず。私はそう付け加えたい。

|第219回 2022.8.15|