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八王子「eまちサミット」〜いのち育むまちづくりを見る〜

コラム町永 俊雄

▲八王子の「eまちサミット」は、認知症を対象化させていない。認知症の視点から、誰もの笑顔のまちづくりにつなげている。認知症を当事者化した時、「認知症の力」が生まれる。

11月3日の文化の日、八王子で「懐かしい未来」を語り合うような、そんなイベントが開かれた。
これまでの未来社会といえば、20世紀の科学主義の中、ロボットと空飛ぶ自動車と空中都市といった風に常に新奇なもの、まだ見ぬもので描かれた科学の想像図でしかなかった。

「懐かしい未来」は、未来を人間の中に描く。
陽が傾いて、街角が茜に染まる頃、缶蹴りしていた子供たちに親が「ご飯だよー」と呼びに現れて、そうした親たちが立ち話に花を咲かせ、通りかかった酒屋の御用聞きの若者がからかわれ、笑い声が弾け、往診帰りのセンセが、風邪が流行っているから気をつけて、と微笑みながら通り過ぎていく。夕焼けに学校のチャイムが響いて、ほらほらもう暗くなるよとみんなが家路に急ぐいつもの光景。

改めて、私たちが打ち捨ててきた貧しかった頃の豊かな風景に胸締め付けられるが、しかし、そうしたノスタルジアにバックステップすることは、残念ながらもうできないのである。
だとしたら新たに、暮らしの中の私たちの地域を「安心の社会」に再創造する。それがかつての人とのつながりを軸にした「懐かしい未来」だ。誰もの命と暮らしを託す未来である。

八王子のイベントは「eまちサミット(いーまちサミット)」と名付けられ、基調講演から八王子の取り組みとトークセッション、別会場での介護やデイサービスの発表、認知症カフェなどなど多面的で、そのどこにも認知症の当事者が参画して、地域に広々と開かれたイベントだ。
このイベントは、今のウィズコロナの時代の地域社会はどうあったらいいのか、と言うことを自分たちの環境と感覚に引き寄せている。

私が注目し、印象に残ったのは午後からの、イトーヨーカドー八王子店と八王子市中央図書館のそれぞれの担当者の取り組み報告と、それを受けてのトークセッションである。
広く地域社会のメンバーとして大規模小売チェーンを展開する企業体と、公共の拠点である図書館が真っ向から堂々参加して、この地域社会について、認知症当事者と語り合う。
ご意見拝聴、と言った他人事ではなく、企業も図書館も自分たちの取り組みを問い、検証し、提案するその姿は何とも心強い。
こうした企業や公共施設と共に「まちづくり」を考えるというのはウィズコロナの時代の新たな共生モデルだろう。企業もまた地域の成員であり、その参加はこれまでの地域福祉の発想の枠組みをイノベーションする可能性がある。

このイベントでのユニークな取り組みに、スーパーや図書館の現場に認知症当事者が出向き、買い物や本を見つける実体験をするというのがある。
これをなんと「練り歩き」と名付けている。練り歩きとは、なんともウィットに富んでいる。お祭りや神輿では「練り歩く」と言うし、英語にすればパレードである。
視察ではないのである。これは単に言葉の選択というより、認知症のある人と、地域の企業や公共施設と対等につながるという思いと願いが、この「練り歩き」には込められている。

私はこうした八王子の取り組みに底流する思いは、地域社会を拓いていこうとする感覚の先端なのだと思う。この社会は誰かが作るのではなく、誰もが参加することで前に進む。一人の百歩より、百人の一歩。

さて、その練り歩きは、もちろん、手を振りながらにこやかに歩いて終わりのパレードではない。(さとうみきさんがやるとなんとも、サマになるような気もする)
スーパーでは実際に買い物をする。参加した認知症のある人の要望で、晩酌のための缶ビールとおつまみ、冷凍の枝豆を買ってみると言う設定だし、図書館では、本人の趣味の電車の本を探す、と言った具合である。

やってみるとスーパーの売り場では棚の値段表と商品が離れていて、どれがどの値段だかわからないし、値引きの10%引きの表示ばかりが目立って、肝心の値段は小さくてわかりにくい(値引きで釣るんですともいえないしなあ)。
図書館では、電車の本を探しても、案内板には「電車」の表示がなくてわからない。たぶん、「鉄道」の分類表示だったのだろう。大体が図書館というのは情報施設でもあり、わかりやすくするにも限界がある。しかし図書館の練り歩きをした本人からは、助けを借りながら探していた本が見つかった時には嬉しかった、ワクワクしたと言う声もあった。
やさしくするだけがバリアフリーではない。本人の意志を生かすことが、本当のやさしさである。

実は私は令和元年(2019年)に、厚労省の老健事業の認知症バリアフリー社会の検討委員会の座長を務めた。その時の委員がイトーヨーカドーの中核である経営企画室のマネージャーだった(この方は、八王子のイベント会場にも見えていて久しぶりに再会した)。そこで、企業としての意欲的な取り組みの報告してもらったことがある。

まだその当時は企業の側では、認知症のある人との「対応での困りごと」といった発想が多かった。
確かに売り場や窓口で対応する企業の側の困りごとは深刻だった。認知症のある人にどう対応したら、どう声をかけたらいいのかわからない。そこから認知症への理解や啓発に進む部分は、確かに大きいだろう。
が、その時私はこう話した記憶がある。

「認知症観の変更がバリアフリーとなる。対応する側では認知症のある人を、どうしても「困った人だ」と捉える。そうした現場のトラブル解消の発想はバリアフリーにはならない。そうではなく本人の側に立てば、「困っている人」なのである。「困った人」から「困っている人」へと視点を本人に転換し、それぞれの認知症観の検証が必要だ」

今回のイベントでは、イトーヨーカドーの担当者は、こう報告した。
大規模な全国チェーンとは言え、スーパーという小売事業は暮らしの只中で成立する。その意味では、地域が活性化しなければ企業もまた衰退する。同じ共同体のメンバーとして参加している、と。

企業も変われば、地域自治体も変わる。
八王子のイベントはバリアフリー社会を、「みんなが笑顔になるまち」と言い換えている。ここでは認知症を対象化するのではなく、ユニバーサルなまちづくりと捉えようとしている。
これまで身体障害のある人が車椅子で街を点検し、バリアフリーへの提言につなげる活動はよく知られている。八王子での取り組みはこの認知症版ともいえそうだが、認知症は、身体障害と違って外見ではわからない場合が多い。つまり物理的バリアよりは、誰もの心の中のバリアが一番の障害になる。

そのためにはどうするか。
八王子のイベントは徹底した対話である。企業体と図書館、認知症のある人たちとのトークセッションは全体で2時間に及んで、なお語り足りないほどだった。対話する地域社会の誕生であり、それも認知症の当事者の練り歩きを起点とした、地域社会を認知症から見るという視点である。認知症のある人のまなざしで地域を見るとどう見えるか、そこからの対話を始めようとする。

午前の基調講演で、岩手でのスローショッピングの報告をした紺野敏昭医師はこんなことを語った。
「多くの医療者や専門職が陥る罠がある。それは、認知症と診断されると、その人のできないところばかりが目についてしまうという罠で、その人のできることへのまなざしが失われてしまう」

同じく基調講演をしたさとうみきさんは、自分の体験と思いを語った。
「認知症のある私は、失敗をよくします。でもその失敗をしてもいい社会なら、私は暮らしていけます」
できないことばかりを指摘し、失敗を責めるだけの社会、それは子供も高齢者も誰もが怯えに縮み込む社会である。

が、八王子のイベントのサブタイトルは「認知症になってもみんなが笑顔になるまち」である。
ソフトで軽やかな言い回しながら、このタイトルは、実は熱く重い。
ここには、この少子超高齢社会を不安や怯えの中に描くのではなく、八王子の福祉ストックを誰もが出し合うようにして、確かめ合い分かち合い、本来の地域社会の姿を取り戻す。そんな熱いまちづくりの決意と宣言が込められている、私はそう読んだ。

八王子のイベントには実に多彩な人々が全国から集まった。
高齢者、若い人、ジャーナリスト、認知症のある人、専門職、医師。
イベントのバックヤードでは、運営にあたる地域包括支援センターの職員、認知症地域支援推進員の人々が駆け回り、会場のあちこちにボランティアの地元高校生が立ち、要約筆記の人、手話通訳、車椅子の人もぎっしりと詰めかけた。

そこに生まれて一ヶ月の赤ちゃんと共に参加したご夫婦もいて、みんなが赤ちゃんの顔を覗き込み、ご夫婦を知る人は、小さくて柔らかなその赤ちゃんをかわるがわる抱き上げては微笑んだ。
そうだ、私たちは、このいのちを託されている。この子の未来を託されている。
その時あるいは、そんな想いが会場に溢れたのかもしれない。

そこに一瞬現れた「懐かしい未来」
晴れわたった暮らしの中の「文化の日」のイベントだった。

|第227回 2022.11.8|