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丹野智文「働く」を語る 〜認知症当事者勉強会の報告〜

コラム町永 俊雄

▲上段、認知症当事者勉強会の参加者たち。コロナの中、いつもより少なかったがその分、熱量は上がった。下段は、報告者の丹野智文さん。

1月21日に三鷹駅前コミュニティセンターで、認知症当事者勉強会が開かれた。
会場は、まさにコミュニティ、地域のためのセンターで、ここでは男性の料理教室や子どもたちが参加するイベントやコーラスなどの練習に使われていて、私が勉強会に訪れたときにもボイス・トレーニングの講習などが開かれて参加者の女性陣がにぎやかに集まっていた。

勉強会はほぼ毎回、この三鷹駅前コミュニティセンターで開く。子供達が駆け回ったり、他のイベントの参加者たちが行き交うセンターで、認知症の勉強会が開かれる。
こうした光景は、おそらく全国各地で当たり前にみられるようになっているはずだ。認知症カフェでや本人交流会が全国の街々で開かれ、そしてそれがいつの間にか暮らしの光景に馴染んでいるとするなら、それはやはり認知症と共に生きる風景となっているといっていい。
変化は小さく積み重なっていつ間にか、大きな変革につながっていく。

さて、今回のテーマは「診断後、同じ会社で働き続けること」である。
去年9月にも、認知症の人の就労についての勉強会は開かれている。前回はどちらかと言えば就労支援する側からの報告だった。

今回の報告者は、働く当事者、丹野智文さんだ。
認知症当事者にとっての「働く」ということはどのように受け止められているのだろう。
ご存知の通り、丹野さんは若年性アルツハイマーと診断されて今年の春でちょうど10年経つが、今も仙台の自動車販売会社で働いている。
丹野さんにとって働くということは、やりがいと収入につながる点が大切だと言う。働くことは、社会と接点を持っていることの確認であり、役割を持っている自覚が自分を前向きにさせ、その点では、一般の就労と変わりはないのではないかと語る。

そして、丹野さんにとっては何より家族のために働き続けたいという思いが大きかった。認知症になっても収入があることは家族を支えている実感につながり、自分の自信にもなったと力を込める。
だがその一方で、トップセールスマンだった丹野さんの仕事は、やがて簡単なファイルの整理やホッチキスでの書類作成などになり、かつて指導した後輩たちはどんどん昇格して、自分を追い抜いていく現実のつらさもいやというほど味わった。
それでもその現実を受け入れられたのは、仕事の傍ら各地を飛び回って当事者と出会い、その当事者たちが笑顔になる力になれたからだという。

会社も変わった。職場に丹野さんがいることで、誰もが認知症の話ができるようになり、自分の家族の介護の相談や休みの取得もとりやすくなったそうだ。もともとオープンな職場で、認知症についてもあまり知らなかったことが、かえって幸いしたのかもしれないと丹野さんは語っていた。
現在の丹野さんは、スポーツ選手の専属契約のように、在籍しながら、主に認知症啓発活動する社員と位置付けられている。これは会社としても社会貢献の役割を果たすことにもなり、実際、車の販売活動でのイメージアップにもつながるというメリットを持つ。
ひとりの認知症当事者が、会社を変えていったのである。

しかし、今の厳しい就労環境の中で退職を迫られている人や、現場で認知症のある人にどう接したらいいのか戸惑う人から見れば、確かに丹野さんの報告は恵まれた職場環境として映るかもしれない。
しかし、丹野さんはそれは初めから用意されていたわけではないと言う。それは6年間かけて、丹野さん自身、何度もつらい思いもしながら働き続け、会社の側と語り合い、会社と一緒になって作り上げてきた環境であると報告した。

「働く」と言うことは、就労する人と会社との了解と契約で成り立つ。働くことは、それぞれの人生観や価値観、就労環境によって違うから、ひとつの正解を出すことではない。
だから、丹野さんの報告を特例的だとか、目指すべき就労の形と捉えるのではなく、そこから認知症のある人が働くための要素を還元し、社会に普遍化する見方が必要だろう。

私は、今回のテーマである「診断後、同じ会社で働き続けること」に即して考察するなら、それは一般就労であり、同じ職場の同じ人間関係の中で働き続けることと受け止めた。それは地域社会で暮らし続けることに相通じる設定だからである。
となると、丹野さんが働き続けながら今の職場環境を変えていけたのはなぜなのだろうかと考える。それには丹野報告の中の、「会社が認知症のことをあまり知らないことが良かったのかも」と言うところに注目する。

それはあるいは、「知らなかった」と言うより、職場にスティグマが希薄だったのかもしれない。職場の人々は以前の丹野さんを知っており、同僚たちは「認知症」と言う病名、もしくは疾患モデルから入ることなく、丹野智文という「人間」にまず接し、そこから「認知症」と出会ったのである。
彼の認知症と伴走しながら、丹野さんを通して、10年かけじっくりと会社組織は「認知症」を学んでいった。だから、丹野さんが会社を変えた側面があると共に、当事者と会社との互酬の関係からすれば、会社が今の丹野さんを育てたとも言える。
そこにあるのは、働くことを生産性の文脈ではなく、存在の役割として捉え直した企業の姿である。

このことは認知症の人の働くを考える上での大きなヒントだ。認知症を見るのではなく、人間を見よ(SEE THE PERSON  NOT THE DEMENTIA)。その人のできないことより、できることやりたいことから組み立てる。それは「認知症の人のため」を超えて、私たち誰もの「働く」の再定義にもなるのではないか。

今回の勉強会も多彩な人々が集まった。
介護専門職、医療者、認知症本人、家族、地域活動の人、企業人、研究者、メディアの人、そして毎回、政策プロセスに関わる人々も参加する。
そうした人々の発言も多岐にわたる。現場から、どう接すればいいのかという切実な問いかけもあれば、自分のことを語りながら自身の労働観の変遷を述べる人、「生きる」ことへの根源を感じ取った感想を語る研究者など、多様な感想がこの社会がどうあればいいのかに収束していく。

運営する世話人の側からは、この本会に先立つ世話人会での議論の中で、働かない選択、あるいは働けない人々の存在承認や、役立つことのみの前景化の中での能力主義への懸念などが提示されたこともまた報告された。

そうそう、丹野さんが、しっかり稼いで家族を養うという役割を持つことが自分の生きがい、やりがいにつながるという発言に、異議申し立てがあったことにも触れておこう。

この勉強会の常連で、この国の認知症ケアの生みの親というべき中島紀恵子さんは、稼ぐ夫と養われる家族、それは父権主義につながるとして、こう発言した。
「この社会の家事育児介護といった福祉的労働は、これまで主に女性の可視化されない無償労働によって支えられてきた。そのことの評価なしに、就労が男の側の論理だけで語られることには、女性として受け入れられないところがあるのよ」と、慈愛に満ちたようにして、しかしキッパリ指摘するのである。
それを受けて丹野智文さんは、「中島先生に叱られました」とこれをまた嬉しそうに返し、本質は和やかに共有された。

私はこれは認知症当事者発信の、ひとつの成熟地点であると思う。
当事者発信はこれまで、できない、わからないという認知症観から新たな共生の地平を切り拓いてきた。しかしそれはどこかで、一方的な発信する側と聴く側だけの関係に閉じてきたところがあったかもしれない。

それを本当の意味での発信とするようにして、この勉強会では当事者と広々としたやり取りが交わされる。仙台で認知症のある人々と市民との語り合いの場であるリカバリーカレッジを主宰する丹野さんにとって、勉強会のこのやりとりは、本意であり嬉しい出来事だったに違いない。
当事者は保護されるだけの存在ではなく、地域社会の対等な成員としてその言説が検討されたのである。

私たちの勉強会がお世話になる三鷹駅前コミュニティセンターの管理運営の主体は、行政ではない。ユニークなことに(と私は思うのだが)三鷹駅周辺住民協議会である。地域住民の皆さんなのだ。私たちの認知症は、市民性の只中で語り合われたのである。

終わって夕闇迫る中、さあ、二次会だぁと、週末の街に繰り出すメンバーに、私はひとつの「学びのコモンズ」の確かな姿を見た。

|第235回 2023.1.25|

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