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ボランティア社会と「聴くこと、伝えること」

コラム町永 俊雄

▲少子超高齢社会を成り立たせるには「ボランティア社会」とすることだろう。「聴くこと、伝えること」とは誰もが備える福祉力であり、それが生き生きとした風通しのいい社会を創る。

この春からある機関誌に連載を始めることになった。なってしまったという感じがしないでもない。
というのも、私は常々医療者や専門職でもなく、ましてや福祉の専門家でもありませんとお断りをしている。ではナニモノなのかといえば、ま、ナニモノでもないのである。単なるオッサンの必然の進化としての、単なるジイサンにすぎない。

実は以前からそこはかとなく、ノマド(遊牧の民、自由な精神といった感じか)という言葉に小さく憧れを持っていて、しかしいまさら、世界に打って出るような気力、体力、知力なく、ただ頼りない自分の精神の拠り所としての、ノマドのようにあちこち所在不明の発信をしてきたにすぎない。

連載の依頼をしてきたのは、全国社会福祉協議会の月刊「ボランティア情報」である。
みなさんには馴染みの薄い機関誌だと思うが、ここに毎月載せられているのは、全国各地の生の声である。地域が今どうなっていて、どのような思いで暮らし、どのようにすればいいのか必死に考え、そして、だからこういうことをやっています、といった取り組みや思いがその当事者からの報告になって掲載されている。地域を考える時、この報告を読むとほとんど現地取材したかのようなリアルを感じたりする。

私はこうした記事を毎月拾うようにして読みながら(あまり熱心な読者でなくてすまない)、これは今のこの社会での、希望の創り方なのだと思ったりする。
たとえば、今どこの地域でも見舞われている高齢化と人口減、極限的とも思える過疎化の現実の中の報告がある。
その報告は冷静にその事態を引き受け分析し、どこに未来を見いだすかというと、そこに暮らす人々とのつながりと関わりを創ることなのである。言ってしまえば単純かもしれない。

しかし、その取り組みには熱量がある。自分の故郷への想いがある。なにより、その関わり方に他者性がない。そこに暮らすお年寄りのレジリエンスとしての笑顔が必ず掲載される。もちろん想いや願いだけで解決などしない。共に動く社協や行政の姿も報告されている。社協の機関誌ならではの強みだろう。小さな地域の社協や行政者は、同じ地域に共に暮らす人々なのである。

この社会の厳しい変化は外から来れば脅威だが、自分たちの中から生みだす変化であれば希望となる。別のテーマとしての福祉教育、これは未来へ向けての希望そのものだろう。ちなみにこのボランティア情報の記事は一年たった記事なら、web上で閲覧できる。

▼地域福祉・ボランティア情報ネットワーク
https://www.zcwvc.net/member/mag_volunteer/(外部サイト)

そのような機関誌が「ボランティア情報」なのである。皆さんのイメージする「ボランティア」より遥かな広がりを持っているのではないだろうか。
ボランティアというと、能登半島地震支援の最中ということもあり、災害ボランティアを思い浮かべる人が多い。1995年の阪神淡路大震災はボランティア元年といわれた。今や自然災害と共にあるこの社会では、ボランティアの存在がなくてはならないほどに大きい。ただその存在の大きさがかえってボランティアの印象を一面的にしたところもないわけではない。

災害ボランティア活動をメディアが伝える時、活動と共に、住民の「助かりました。本当にありがとうございました」といういかにもホッとした表情と感謝の言葉が映される。そうだろうなあ、本当に良かったなあと、若いボランティアにこちらも画面越しに感謝したくなる。

ある時ふと、ボランティアとはそういう位置付けだけでいいのだろうかと思った。いつも「ありがとう」と言われ、その取り組みが報じられるときには、観る側にそうした感謝の言葉のシーンをどこか無意識にも期待させてしまってはいないだろうか。

もちろん災害時のボランティアの大きな役割については、いうまでもない。だからこのことは、ボランティア活動の意義や評価、あるいは感謝する住民の深甚の想いとは全く関わりがない。
ただ災害ボランティアの印象だけが前景化し、またメディアの伝え方もあって「ボランティア」とはいつも、感謝される活動、というイメージが定着してしまってはいないか。

以前、ボランティア活動に取り組む学生たちと語り合ったとき、その一人が、「確かに感謝されることが多いが、むしろ自分の中では相手に向かって「ありがとう」と感謝したい気持ちが大きい」と語ってくれたことがある。よくわかる。ボランティアの活動とは特に若い世代にとっては、自分を発見し、新たな自分を育てるかけがえのない機会なのである。

あるいは、ボランティアとは「ありがとう」と感謝される以上に、自分自身に「ありがとう」と告げる活動でもあるのかもしれない。

ボランティアには互いをケアする「互酬性」があるとは、実は今から30年以上前の1993年の厚生省の「福祉活動参加指針」で示されている。次の記述である。

従来、ボランティア活動は⼀部の献⾝的な⼈が少数の恵まれない⼈に対して⾏う⼀⽅的な奉仕活動と受けとめられがちであったが、今後はこれにとどまらず、⾼齢化の進展、ノーマライゼーションの理念の浸透、住⺠参加型互酬ボランティアの広がり等に伴い、地域社会の様々な構成員が互いに助け合い交流するという広い意味での福祉マインドに基づくコミュニティーづくりを⽬指す

以前の厚生省のときも(2001年から厚労省)相変わらず文節が長くオカタイ文章なのだが、ここですでに「住民参加型互酬ボランティア」とあるのは、今の「ともに生きる」の先取りであり、原型だったろう。この指針には、ノーマライゼーション、互酬性、そしてコミュニティづくりが盛り込まれている。これがそのまま認知症基本法となって現在の私たちの社会の指針となっている。

厚生省のこの福祉活動参加指針が出された1993年は、バブル崩壊の時である。
経済の崩壊を目の当たりにして、福祉活動を住民に託すしかなかった時代の危機感が、この社会を「ボランティア社会」として描き直そうと、おそらく祈るような思いでこの指針が世に出されたのである。

実は私たちのこの社会は、これまでもこれからもボランティア社会なのである。
以前、私はこんな小文を著したことがある。

「この少子超高齢社会というのは、高齢者人口が膨れ上がる一方で、子供若者人口は限りなく縮む社会である。誰が考えてもわかるように社会保障的な視点では既に崩壊状態なのである。
そのギリギリの土俵際で爪先立つようにしてこの社会が成り立っているのはなぜか。
それは、困っている人がいたら、自分が苦しい時にでも思わず手を差し伸べるという私たちの地域社会が育んできた美質というものを誰もが受け継いできたからである。
そうした福祉ストックと言うものがあったはずなのである」

これが私たちの地域が育み、ストックしてきた「ボランティア社会」なのである。
ただこのボランティア社会は地域限定、言い換えれば、二人称の関係性である。よく見知った同志の同じような環境での「私とあなた」の関係に行き来するボランティアである。

東日本大震災、そして能登半島地震のような災害ボランティアは、三人称の関係にボランティアを押し広げた。まだ見ぬはるかな他者である彼ら彼女たちのつらさや悲しみを、自身の身を切るような痛みとし、それを想いや行動に移していったのである。それは今を生きている自分のためのやむにやまれるような行動でもあったはずである。

これからは助け合い支え合うという次元を切り上げて、「与え合う」「ケアし合う」とするボランティア社会に組み直さなければならない。
ではどうすればいいのか。それは「ボランティア」とか「福祉」と言ったところから考えないほうがいい。ボランティアをいったん傍において、「ボランティア社会」を考えてみませんか、という何やら判じ物のようなテーマが、実は私が担当する今回の連載なのである。

それが、「聴くこと、伝えること」を考える、という連載タイトルになっている。
ボランティア社会とは、「聴くこと、伝えること」が目まぐるしく行き来する社会である。それはまた自分自身の内側の声に耳を傾けることでもある、そんなことも伝えたい。
どんな連載になるんだろう。考えながら進めたい。

|第278回 2024.4.24|

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