体験談〜本人の声、家族の声〜

認知症の人と家族の会 
会報誌「ぽ〜れぽ〜れ」

2014年1月号(402号)

ー お便り紹介 ー

病気が治らなくても穏やかに岐阜県・Mさん 69歳 女

パーキンソン病の72歳の夫は、平成24年5月にレビー小体型認知症と診断されました。私は恥ずかしいですが、初めて聞く認知症で、なかなか理解できず、どう対応してよいかわからず混乱しています。
今年5月、私の1 ヵ月の入院があり、その時ショートにお願いしましたが、我が家に帰った夫は認知症がひどくなっていました。
昼間は案外穏やかですが、夜中になると「誰かの声がした」「ノックの音がした」と幻聴があり、ベッドから起き、家の中、2階まで各室全部懐中電灯を持って見て回ります。途中で歩けなくなり、転倒し、うずくまって止まり、起き上がらせるのに大変です。私一人ではダメなので、息子を起こしベッドへ連れて行きますが、ヘトヘトです。私に対しても「誰かと寝ていた」「何か隠している」「誰かにピンクの10万の着物をもらっただろう」とか全くとんでもないことを言うのでビックリし、怒りが出てしまいます。気分転換にと思い、昼間、ドライブ、買い物、映画、美術館にと一生懸命やっているのに、こんな事言われるのかと悔しくて、悲しくて泣けてきます。
否定はいけないこともよーくわかっていますし、我慢もしていますが、時には腹も立ち、荒々しい言葉も出てしまいます。病気は治らないのですが、介護する私や家族が少しでも気持ちが楽になればと願っています。穏やかに介護がしたいです。

今までの母はもういない?鳥取県・Kさん 48歳 女

ピック病と診断された73歳の母の急激な変化に戸惑いました。今までの母はもういません。まるで新しい母が我が家にやって来たようです。母が亡くなってしまったようで、涙する日々が続きました。
母の事を心配していた父が今年の6月、肺がんで亡くなりました。老健への入所を目指して母はショートステイを使っています。10月に肺炎になり入院しましたが、よく動くということで付き添いが必要と言われ、姉と交代で付き添い、大変でした。

これでいいんですよね富山県・Aさん 52歳 女

母がお世話になっている特養で半年に1回のカンファレンスがありました。母のこれからのケアについて丁寧に説明して下さいました。3年前のゴールデンウィーク明けに入所して以来、本当によくしてもらい、誤嚥することもなく、水分の補給、栄養のある食事、トイレの誘導、リハビリなど様々なケアが行き届いています。また、いつも温度や湿度調整された部屋で肺炎になることもなく、穏やかに過ごさせてもらっています。
しゃべれないので、母がどう思っているかわかりませんが、しっかりしていた頃の母からすれば、「帰りたい」という思いと「子供に迷惑をかけたくない」という思いが混ざり合っていると思います。流れに沿って、無理のないように進めてきた結果、現在があるので、これでいいんだという気持ちでいます。たまに会いに行っても、いつも眠っていますが、デイサービスで忙しかった在宅の70歳代を思うと、お互いにこれでいいよねと勝手に思っています。割り切るのも介護のコツかもしれませんね。

ー 私の介護体験談 ー

若年性認知症の兄に寄り添って…高知県支部会員

宮崎から高知へ

7月に宮崎の兄夫婦家族と母と私で先生(主治医)のお話を聞き、家族会議を開いたのですが、兄の妻からは「介護は絶対嫌、離婚してくれ」と耳を疑うような言葉が聞かれました。
高齢の両親と私で、高知での兄の介護が始まりました。約1週間ほど、「何で私が兄の介護をしなくてはいけないのか」と悩んで泣き暮らし、主人が「辛いのはお前だけではない」と慰めてくれても八つ当たりする始末でした。
心のバランスを崩しかけておりました私は、友人に話を聞いてもらい、バランスを保つことができました。友人の一人から市役所の福祉課に連絡をしてみてはと、アドバイスをいただきました。その時に、社会福祉士さんは成年後見人の手続きも進めなさいと助言をしてくれました。
まだ私の不安は拭い切れないので、若年性認知症コールセンターに連絡した数日後、コールセンター・家族会に電話をして話を聞いてもらいました。「自分一人で抱え込んだら駄目、いつでも相談の電話をしてください」と励ましていただきました。

兄の成年後見人に

新薬を投薬して数日後の未明に、激しい興奮状態が出てしまい、母が普通の口調で朝ご飯のことを告げると、立腹して最初の徘徊が出ました。その日の午前10時頃に地域包括支援センターの保健師さんから介護保険のことで電話があった際に、徘徊で行方が分からなくなっていることを話すと「早急に病院に連絡して、警察に捜索願いを出しなさい」と、教えてくださいました。捜索願いを警察に届けて、30分後位に母から連絡があり、兄は迷いながら3時間歩いて15キロ離れた叔父の家に行っていることが判明しました。その日にGPS機能付き携帯電話を購入しました。数日後、保健師さんと社会福祉士さんが家庭訪問してくださいました。
主人に了承してもらい、週末だけの介護生活が始まりました。週末は父と、特に母の負担を軽くするために私が実家に帰ることにしました。
介護認定で要介護2の通知が来た時に保健師さんはデイサービスを勧めてくれましたが、まだ、ご近所の民生委員さんと兄の幼なじみのご夫妻にしか兄の病名をお知らせしていなかったので、ご近所に病気のことが分かってしまうと両親は決めかねていました。
父は自分の病気、年齢のことを、母は年齢のことを考え、私に兄の成年後見人になることを勧めました。書類を取り寄せて、自分でできることはすべてやって、主治医の先生に鑑定をお願いしました。成年後見人になれたのは翌年2月でした。

自分はまだ自衛隊員

兄は病名を告知されて少したった時、自分はまだ自衛隊員で、基地で勤めていると思っているようでした。主人のことを小隊長と呼び、父のことを隊長と呼んでおりました。私のことを女性隊員と間違えてみたり、自宅前の県道が滑走路に見えて戦闘機が着陸すると言ってみたりすることがありました。夕暮れ時になると、自分が何処にいるのか分からなくなり、荷物をまとめて、「営舎に帰ります。お世話になりました」と実家から出て行こうとすることが多々ありました。

※ 会員様からのお便りを原文のまま掲載しております。