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認知症の人と家族の会
会報誌「ぽ〜れぽ〜れ」2014年2月号(403号)
ー お便り紹介 ー
私の母も前頭側頭型認知症です高知県・Yさん 女
私の母も初期の頃は認知症とは思いもよらず、うつ病か統合失調症ではないかと思っていました。記'憶力は良かったですし、新しいことも憶えていました。認知症専門の先生の診察で、初めてこういう認知症があると知りました。
ご家族が疑いを持っておられるならば、他の先生にも診てもらってはいかがでしょうか。この認知症は間違った診断が出ることがあるそうです。
また、施設を探されるのであれば、前頭側頭型認知症の対応を勉強した職員さんがいる施設を探すことをおすすめします。アルツハイマー型認知症に比べて少数派ですので、情報が少なく慣れていない職員さんでは対応が大変だと思います。
私の母は、3 ヵ所目のデイサービス施設で、ようやく落ち着いて通うことができるようになりました。周囲の対応が良くなるとお母様も穏やかになられるのではないでしょうか。
看護師として働いていますが、家族となると・・・高知県・Yさん 65歳 女
80歳の夫は、昨年夏にレビー小体型認知症と診断されました。
職業柄、認知症看護は大好きでした。しかし、家族が認知症になった時の苦悩は、教科書や学んだことの中にはありませんでした。看護師として患者さんに対応する事と、認知症になった家族を抱えるという2つの面を、はからずも体験させていただいております。
同じ悩みを持った家族として、お互いに支え合っていける事を願っています。
思いもよらない病名に静岡県・Uさん 58歳 女
60歳の夫は、約4年前にうつ病と診断され治療を続けていました。症状が悪化し、約1年間入院。いつかは治るものと信じていたのに、退院を目前にしてスベクトの検査結果から認知症と言われました。
思いもよらない病名で、心は揺れ続けています。同じ立場の方と話をしたい、つながりを持ちたいと思います。
ー 私の介護体験談 ー
避難生活の中の介護から福島県支部会員
震災当時
まもなく震災から3年になろうとしています。私は、当時南相馬市鹿島区(原発から32キロ地点)の特別養護老人ホームとグループホームの職員として勤務していました。町は混乱の中、続々と市民の避難が進められ、病院も閉鎖され、町から明かりが消えました。物流は放射能の不安と恐れから機能せず、食料も薬品もストップした町で、避難先が見つからない229人の利用者を抱え施設に泊まり込み続けました。
母の変化
そんな私にも原発から20キロ圏内の自宅に母、妻、子がおり、避難命令で、まだ元気だった母と家族を仙台の長男宅に見送りました。施設利用者も1週間後、引受先が決まり、229人の利用者と50 人の職員で横浜市に避難をすることができました。その後、施設の再開のため福島市に事務所を構え、アパートを借りて家族を呼び戻すことができました。
母は、稲作と養蚕を経営する大規模農家の嫁として寝る間も惜しんで働いてきましたが、近年は要介護1の認定を受け、デイサービスや老人クラブの旅行、カラオケを楽しみながら、野菜作りを趣味として生活していました。
そんな母に少しずつ変化が現れました。「ここはどこなのか」「家に帰りたい」と訴えることが増え、避難先のアパートから一歩も外に出なくなり、好きだった歌にも興味を示さなくなっていったのです。妻は勤務先より、業務を再開するために戻るか、退職するかを求められ、南相馬市の実家へ戻ることを選択し、母と二人きりの生活が始まりました。しかし、私は施設再開の準備のため仮事務所に勤務しなければならず、十分な世話もできない中、福島市でデイサービスを利用しながら、避難を続けました。
悪化する母の状態
震災から2ヵ月後、施設の再開の目処がつき、南相馬市に帰ることができましたが、自宅は警戒区域のため市内に借上げ住宅を確保して3人の生活が始まりました。母は日に日に食事量が減り、排世、歩行、入浴、着脱など全て介助を要する状態となりました。認知症の進行で、どこにいるのかも、妻の顔さえも判断がつかない状況になり、要介護4と重度化しました。そんな介護状態でも私たちは仕事を辞めずに在宅で介護することを選択しました。「がんばらない介護」を目標に、ホームヘルパー、デイサービス、ショートステイ、福祉用具などのサービスを利用しながら対応しました。
住み慣れた自宅
悲しい思いもありました。入院していた母が退院したので、自宅を見せようと連れて行きましたが、期待は裏切られ、母は60年住んだ家を思い出すことができませんでした。
原発事故で多くの住民が避難を続けています。今も耐えて耐えて耐えています。故郷の空を見ることなく多くの方が遠隔地で命を落としました。このような現実を忘れることなく一日も早く安心安全な地域に戻していただき、住み慣れた自宅で生活できるよう切に願っています。
私の母にはもう時間がないのです。