体験談〜本人の声、家族の声〜

認知症の人と家族の会 
会報誌「ぽ〜れぽ〜れ」

2014年6月号(407号)

ー お便り紹介 ー

胃ろうをしても再び口から食事ができた義母埼玉県・Mさん 55歳 女

義母は要介護3でアルツハイマー型認知症を10年程患っており、昨年の5月に椅子から落ちたことが原因で硬膜下血腫となり、手術をしました。その後、激しいけいれんを起こし、右半身が不自由になりました。経鼻栄養のチューブは、認知症のため取ってしまったり、食べ物の認識もできなくなり、このままでは栄養状態が悪化する一方とのことで胃ろうをすすめられました。
胃ろうに反対する友人やインターネットの情報も良いことが書いてなく、お断りしようと思いましたが、ケアマネさんから鼻にチューブをつけたままであることも本人にとっては辛いことであり、胃ろうの方が本人は楽なのだと聞かされ、それならばと胃ろうに踏み切りました。
病院から施設に入所できる時にリハビリの先生から「施設の先生に食事をとれる訓練をお願いしてみてください」と言われたので、ケアマネさんを通し依頼しました。施設では嚥下能力を調べて下さり、とろみのあるものなら母には飲み込む力があると言われ、面会に行った時に必ずゼリーやプリンを食べてもらいました。おやつが上手に食べられるようになると、胃ろうと併用で経口からの食事も始まりました。
人により違うと思いますが、まだ食事ができる可能性が残されていて、周りの方の協力があれば、胃ろうをしていても再び口から食べることができる人もいると思います。多くの胃ろう患者さんがそのままにならずに、再び口から食事ができるよう、病院の方々の協力や理解を望んでやみません。

早期退職したものの・・・広島県・Nさん 58歳 男

91 歳の父は介護付き有料老人ホームに入所していますが、今年に入って特に、認知症が身体能力の急激な低下と相まって進行しています。
施設の対応は自己保身的で、結果として本人の衰退を積極的にくい止めようとすることにはなっていない。私はこの3 月で「早期退職」したのですが、母の軽度認知障害も進行しており、十分なことがまだ出来ていません。私は一人身で、兄弟姉妹は死亡していません。

支部のおかげで楽しく介護しています沖縄県・Iさん 58歳 女

あの優しかった主人が、ある日突然に人が変わり、暴れまくり、酒浸りになり、いったいこの人に何がおこってしまったのか。
日の前が真っ暗になり、子供をどう育てようか悩みました。主人を連れて訪れた病院で、若年性認知症と告げられた時は、何の病気かと耳を疑いましたが、本人は病名を聞かされた時から、また人が変わり、酒をぴたりと止め、落ち着きました。夫は少しずつ失ったこともありますが、今では子供も社会人となり、父親の病気の事も受け入れてくれています。
また、私は事あるごとに、沖縄県支部準備会や、宮古島地区会の皆様の助言等をうけています。もう一人で悩み、病気を隠していては、前進がないと思い、皆に打ち明けております。そうすると、自分の気持ちも晴れ、本人(夫)の表情も明るく、サービスも受けられ、介護は楽とは言えませんが、楽しく、この病気と付き合っている状況です。「家族の会」と出会い、本人と二人で旅に出るような感じで、行事に参加していこうと思います。

ー 私の介護体験談 ー

今を大事に生きること熊本県支部会員

妻の異変

そういえば思い当たることがある。物忘れはもちろん、できていた事ができなくなってきたなと、何となく感じ始めていた。認知症介護をしている人達が異口同音に発することだ。でも、まさか、いやそんなはずはないとたかをくくっている。
今、私の妻は58歳だが、この4月で59歳になる。若年期認知症と診断を受けてこの7月で丸5年だ。おそらく発症したのはもっと前だろう。私の勤務していた病院は目と鼻の先にある。毎日妻がこしらえた弁当をアパート階下まで取りに行くのが日課だ。ある日、弁当に異変が起きた。ご飯とおかずの容器は別々にしてあるが、おかずの容器には何も入っていない。つまり、ご飯だけだ。電話してみると、おかずは入れ忘れたようだ。ま、たまにはこんなこともあるかなと笑って済ませた。
数日後、今度はおかずだけしか入っていない。今度は腹立たしく電話で叱って売店で弁当を買った。そのうちに極端におかずの種類が減った。印象的だったのが、ご飯の上に高菜の油炒めが目一杯載っていて、おかずの容器にも目一杯高菜の油炒めが入っていた。思わず同僚たちの目の前で慌てて弁当に蓋をした。頭の中は怒りと、この異変に対する不安が駆け巡った。本人に問いただすと謝るばかりで、最後には嫌なら弁当を買えばと切れてしまう。
その後もガスをかけたままの鍋、一晩中出しっ放しの風呂のお湯、自分の名前を書けないなど、枚挙にいとまがない。定年退職まで勤めることができたのが、私にとってせめてもの救いだった。

神様の試練

若年期認知症と診断に至るまでの数年間は、本人にとっても家族にとっても、焦燥感が募るばかりで糸口が全然見えてこない。記憶が薄れていく妻に対して、私や兄弟、両親も呆れ果て、罵倒することも度々あった。今思えば、本人が一番辛かっただろう。
やっとの思いで病院受診し、アルツハイマー型の認知症の診断。言葉が出ない、なんで妻がという思いだけが走馬灯のように駆け巡る。夢であってほしいと何度も思ったが、やはり現実は変わらない。いっそこのまま二人で楽になろうかと妻に言ったこともある。妻もそうねと他人事のように答える。でも、私にはそんな勇気もなく、ただ心で泣くしかない。もし神様がいれば、なんという試練を与えたのだろうと恨みたくもなる。

希望の種

ケアマネジャーとの話の中で、自立支援医療、障害年金だの障害者手帳などの情報を知った。その間の経済的負担が悔やまれた。毎日妻から離れられず睡眠不足、精神的ストレスに苛まれ、気が休まることがない。だが、診断を受けて5年目になる現在、やっとこの病気を受け入れ、共存していかねばという芽がでてきたように思える。

今、私は「家族の会」に入会しています。心に蓄積された精神的な悩みを溶かしてくれたありがたい存在です。認知症介護をされている方、ひとりで悩まないでください。同じ悩みの人と話すことで、田畑を耕すように気持ちがほぐれ、希望の種を蒔くことができますと、声を大にして伝えたいものです。認知症でも心は生きています。

※ 会員様からのお便りを原文のまま掲載しております。