体験談〜本人の声、家族の声〜

認知症の人と家族の会 
会報誌「ぽ〜れぽ〜れ」

2016年12月号(437号)

ー お便り紹介 ー

ひとりで抱えることは無理香川県・Aさん 40歳代 女

私は20歳から11年間、介護の仕事をしていました。そして、それから11年たった今、フルタイムは無理ですが、再びパートで介護の仕事をしています。
同居の68歳の母はレビー小体型認知症、要介護5で、なんとか歩けています。6年程前の軽度の頃に母から「金銭管理してほしい」と依頼されましたが、認知症が進むにつれ、泥棒扱いされた辛い時もありました。幻覚・幻聴は毎日あって、意思疎通も困難です。今は娘のことも分からない母ですが、デイケア、ショート、ヘルパーのサービスを利用し、介護・育児・仕事の両立をしています。自分一人で抱えることは無理です。自分たちの生活を第一に考え、他の人の手をここぞとばかりにお借りし、少しでも在宅での生活ができるようにと思っています。

夫とは目の表情とうなずきで…新潟県・Dさん 70歳代 女

夫(80歳、要介護5)は今年の年明けに肺炎で入院となり、在宅介護の7年間は終わりました。
夫は肺炎の治療を終えても、咽頭周辺はいつも痰がたまりやすく、「吸引」が必要となりました。食事の形態もきざみ食やとろみ食が必要となり、病院付設の老人保険施設に入所させてもらいました。失語症も伴っている夫とは言葉でのやり取りはできませんが、うなずくことができるので、面会の時は夫の目の表情をよく見ながら話かけて手を握っています。

認知症の人を地域で支えたい栃木県・Eさん 30歳代 男

3年前に他界しましたが、若年性アルツハイマー型認知症の父を介護していました。妻や子どもの顔もわからなくなり、自宅にいても「家に帰る」と言って家を飛び出し、近隣の方々と共に探したこともありました。その時、近隣の方の認知症の理解がとても大切なのだと感じました。幸いなことに、自宅の近隣の方はいつも父を温かく見守ってくれました。
今、地域の認知症地域支援推進員として働いています。今後、父の時に経験したことをふまえ、認知症を地域で支えることができるよう尽力していきたいと考えています。

懐かしく、悲しく、泣き笑い愛知県・Hさん 50歳代 女

母のズボンの前側にボタンで印をつけ、下着の前側にも赤い糸で×印をつける。「×印がおへその所にくるようにはくんだよ」と。手をつなぎスーパーへ行けば、お菓子売り場で立ち止まるので、「好きなの一つだけだよ」と話しかけている。幼き日、すべて母に言われたことを、今は私が言っている。
懐かしく、悲しく、泣き笑い…。
思春期の頃、反抗期で、暴言、無視、泣いて怒鳴って、ひどいこともしたな…。今、母はその仕返しをしているのかしら。あの頃の気持ちをわかってほしいのかな。いえ…、私に学ばせてくれているんだよね。

ー 私の介護体験談 ー

Slow good-bye to my husband!東京都支部 70歳代

 

夫は69歳で要介護5。12年前の57歳で軽度認知症(MCI:Mild Cognitive Impairment)と診断されました。外資系の銀行で30年近く働き、家族一緒のアメリカ生活も通算17年以上。
幸運にも三井記念病院の特別養護老人ホームへの入居が叶い、一年半経ちました。私は毎日、夫の顔を見に施設に通い、2時間ほど一緒に車椅子を押して公園を散歩し、雀にパンの餌をやり、肩などをマッサージし、持参した食べ物を口に運び、介助します。

一番の思い出

長い介護生活の中、主治医の中嶋先生から「写真の整理をしたら?」「今のうちに旅行を」「おいしいものを食べている?」という的確な助言をいただき、その時期にしかできないことを目いっぱい楽しんできました。一番の思い出は、富山県支部の「全国本人交流会inとやま(笹川のつどい)」です。2泊3日を山あり川あり、日本の故郷の原風景と言えるような所で、若年認知症の仲間と一緒に楽しく過ごし、3年間で計6回参加し、私たちの貴重な思い出となりました。

不安と深く心に残ったできごと

言葉を失い、日常生活を介護者に頼らなければならないことは、本人のプライドを大きく傷つけ、人間としての尊厳も失いかねません。その悲しみはどんなに深いものであるか…。夫との面会が、今の私の生きがいで仕事となっているのですが、先の見えないことが不安にかられます。
看取りを穏やかなものにし、余計な延命措置を避けられるよう夫婦で日本尊厳死協会(Living Will)の会員になって、亡くなった時の葬送も考えています。慌てふためいて後悔しないように。
カリフォルニア州サンフランシスコ郊外に住んでいた時、私たち夫婦は社交ダンスのクラブに入っていて、Mr.カズダンはダンスの先生でした。建築家で、日本文化が好きで、私たちに好意をもち親しく接してくださっただけに、心筋梗塞で急死された時は、私たちも深い悲しみを感じました。
亡くなった時、私は休暇で息子たちと日本にいました。「悪いニュースだ」と言う夫は、電話の向こうでショックを受けているようでした。
サンフランシスコに戻るとMrs.カズダンと連絡を取り、お参りで案内されたのがお二人の散歩コース。大きな木のうっそうと茂る森の土手を登った所。「確かこの辺だったと思うわ」。その木の下に、持参した手製のカステラ一切れにクチナシの花一輪を添えて手を合わせ、Mrs.カズダンはとても喜んでくださり、とても深く心に残ったできごとでした。

私たちの望み

私たちのどちらが先に亡くなっても、思い出のいっぱいつまったサンフランシスコ湾に散骨しようと思っています。「散骨はやめてくれ。僕は泳げないんだ!」「サンフランシスコ湾は水が冷たいからハワイにしてくれ」。映画のようなハワイでの散骨も素敵で抒情的だけど、やはりサンフランシスコ湾がいい。それを聞いた長男は、「海は世界中につながっているよ」と言いました。海を見て思い出してくれたら、それで十分と思っています。それが私たちの望みです。

※ 会員様からのお便りを原文のまま掲載しております。