体験談〜本人の声、家族の声〜

認知症の人と家族の会 
会報誌「ぽ〜れぽ〜れ」

2020年4月号(477号)

ー お便り紹介 ー

取り合ってくれなかった姉愛知県・Bさん 女

遠方で一人暮らしの実母の異変に気がついたのは私でした。その不確かな段階で姉に相談をしたのですが、全く取り合ってくれず、「おかしいのは母ではなく、あなただ」とまで言われ、仕方なく一人で検査から介護認定の段取りまでしました。
結果は、軽度の認知症、要支援1。その後、私と姉の住む近くのサ高住に母を呼び寄せました。その過程でも姉はどこか他人事で、「家族の会」の皆様や、地域包括の方から意見を頂き、「姉は居ない。私は一人っ子なんだ」と思って対応してきました。姉には必要最低限のことしか話しておりません。「仕事が忙しい」その言葉が姉から出るたびに、私の心は姉からどんどん遠ざかっていきます。母も「こうしてほしい」 という依頼もできなくなっています。
姉は来年定年を迎えます。どうも定年後から、関わりたいと思っている様ですが、現時点で私が主介護者になっており、今更横から口を出して欲しくないです。姉とどうやったら理解し合えるか。そもそも、理解し合える日は来るのか。過去は変えることは出来ないし、出た言葉も戻りません。母の今後には不安がありますし、自分だけで抱えられる自信もありません。それでも、私にはケアマネをはじめ「家族の会」や地域包括の職員さん、施設職員さんというプロがバックについています。それが分かっただけで姉をアテにする必要もないのですね。

またつどいに参加します千葉県・Dさん 男

母の件に関しては、決定権は父が持っており、いくら私が外で話を聞いても、私では最終的な事は決められません。その父が、サービス利用の手続きは不要だと言います。息子の私の方が心配しすぎなのかもしれません。
認知症の母自体、他者との関わりを嫌がる傾向があり、例えばここ10年、親しい他人が自宅を訪れたということはありません。まだ、要介護1で、父と私が相手をしていて、それで何とか収まっています。昨年の春頃に介護度が決まったことと、自立支援の受給者証を持っているだけで、心配をおかけしてすみませんが、まだ担当のケアマネジャーもいません。なるべく評判のよいケアマネジャーや施設を探したいと思っていますが、今は空きのある施設を探す方が大変みたいです。
この1年は今の状態で過ごすことができました。ただ、そのうちに息子の私の顔を見てもわからなくなるような修羅場があるのではと思っています。何となくですが、私の母の場合は多分あるだろうと思います。
また、いろいろなつどいに顔を出すと思いますが、その時はどうかよろしくお願いします。

診断後8年、今も、農作業、地域の役職、空手、ギターの日々沖縄県・Eさん 男

認知症と診断を受けてから、はや8年の月日が流れました。自身では記憶の後退など自覚する事も多いですが、はた目には言わない限りわからないようで、家内さえ「あの診断は間違いじゃない?」と言うほど、進行はスローです。しかし、MRIの画像には認知症を示す結果が出るようです。
56歳で認知症とわかってから、職場では第一線を離れ、残務処理や雑用を担当する後方部隊に変わりました。認知症である事を自分の口から話す事はありませんが、どこからか漏れ聞き、離れていった知人・友人がいた事は残念です。しかし、仕事を続けられた事はありがたい事でした。診断後も8年働き、昨年64歳でピリオドを打ちました。
現在では、家内と畑で島ラッキョウやジャガイモ、ネギを作るのが日課です。収穫が多い日は島ラッキョウを出荷しています。また、地域の小団体の監事を務め、会計処理も担当しました。「来年は理事に!」という話も舞い込み、引き受けたいと思っています。
以前から続けていた空手はもとより、この頃はクラシックギターサークルにも参加しています。認知症と一口に言っても、脳のどこを障がいされるかによって症状や進行はさまざまです。診断を受けても、落胆せず、ご家族共々、前を向いて歩んでいただきたいと思います。

ー 私の介護体験談 ー

母の在宅介護15年〜「家族の会」に救われる〜島根県支部 70歳代

介護の始まり

母の認知症の始まりは15年前、母が80歳を過ぎたころだったかと思います。元々きれい好きだったのに、会いに行くと部屋は挨がたまり、5年前のことを昨日のように話したりするようになりました。それでも父が家庭の内外のことをしてくれていたので、あまり深刻に考えず様子を見ることにしました。

父母との同居を決断

しかし、元気だった父が急に入院してから一変しました。1週間で退院しましたが日常生活で酸素が必要となりました。もの忘れが始まった母と父との生活には限界があると感じ、私達夫婦は同居することにしました。母は夜8時頃になると「散歩に行く」と出かけて行こうとし、その理由を聞くと「わたしはいらん人間だ、施設に入れてほしい」と訴えました。思うように動けぬ父もイライラを母にぶっつけて怒鳴っていましたが、病状が悪化し再入院、その半年後に亡くなりました。母は父の死を理解できず、毎晩のように「おじいさんがおらん」と言うようになり、私も睡眠不足になりました。

よその畑の野菜を持ち帰る

母は介護認定を受け、父が入院したころから訪問介護、デイサービスの利用を始めました。最初は「おじいさんの見舞いに行くので行けない」とデイサービスを拒否するので送り出すまで四苦八苦しました。認知症は進行し「徘徊」も始まり、買い物に行くと言っては出かけ、帰ってくるたびに野菜を持って帰るので、出かける時に後をついて行くと、よその畑から野菜を持ち帰っていました。注意しても母には理解ができないことは分かっていましたが、つい言葉がきつくなり、私も自己嫌悪に陥ることが度々ありました。

地域に事情を打ち明ける

この頃には母が認知症であることを地域の皆さんに打ち明け、私一人での介護には限界があるので、主人にも見守りを頼みました。日々の介護の愚痴は姉に電話で聞いてもらい、ストレスを発散していました。その姉も父の後を追うように癌で亡くなりました。姉が亡くなったことがきっかけで、「家族の会」に入会しました。他の家族との交流で我が家より大変なケースを聞き、私はまだ恵まれていると思いました。同時に認知症の人との接し方や介護の工夫などを聞いてとても参考になりました。
現在、母は97歳、要介護3です。認知症が進み最近は放尿、弄便も始まっています。「娘に迷惑をかけたくない」「役に立っていたい」という思いは今でもあるようです。今後も困ることが起きてくると思いますが、いい意味で開き直ることができています。
認知症になったすべての人が安心して暮らせる環境作りが出来れば良いと願っています。

※ 会員様からのお便りを原文のまま掲載しております。