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認知症だからこそ、できること

コラム町永 俊雄

▲ トリックアートのひとつ。錯視の画像。左右の赤い丸は同じ大きさ。で、このイラストからどんな物語を語ることができるか。届く言葉、伝わる力は、今だからこそ誰もが持ちたい。

さて、今回はまず上の図柄を見てもらいたい。
左右に同じような配置図がある。真ん中の赤い円に注目して、どちらが大きいだろうか。この赤い円は、地域の人々の暮らしの活力を示す。そして周りに配置された灰色の円は、そのための支援の存在だ。

これは何を物語るのか。左の赤い円を取り囲むのは、大きな枠組みの施策、政策の支援策である。対して右は、地域に細やかに行き交う暮らしの支援だ。
右の図のように、たくさんの小さな支援がキメ細く取り囲むと、真ん中のあなたの暮らしは生き生きと拡張する。
対して、左の図柄のように、大きな施策政策は影響力はあるが、ともすれば制度は行き届かず、その狭間に押し込まれて、あなたの人生は縮みこむ。そういう図柄である。

講演で、こうした図柄を用いて語り始めることがある。
地域の人々が集まっての講演の場合、そこに集まった人々が福祉の力なのである。この人たち自身の福祉力を語るしかない。

「支え合いましょう、助け合いましょう」と手を替え品を替えて語ったところで、誰もが「はいはい」と無感動に時間を投げやるように聴くしかない。誰の心も一ミリも動かない。
では、恫喝するか。この社会の近未来はすでに壊滅的で、その膨れ上がる社会保障費、すっからかんの財源を語ることで震え上がらせるのか。

この世の中では、ネガティブなことを言う方が、どうやらエラそうに響くらしい。この社会はいかにダメで、見通しもなく、誰もが奈落の底に落ちると言う予言は、確かに誰もが身を乗り出して聴きいるかもしれない。ただし、すっかり怯えた眼差しで。
だいたい、ネガティブな論を展開する人は、その正当性を証明するには、そのネガティブな持論が現実化することを願うしかない。まあ、そんな人ばかりではないと思うが、どうもそれは健全ではないし、そこには人々の暮らしへの思いが希薄なのではないだろうか。私にはそう思えてならない。

希望の未来を語ることは難しい。百倍くらい難しい。
あの赤の円と、それを取り巻く灰色の支援の図柄を使うことで、聴衆それぞれが自分の地域と暮らしをきっと思い浮かべる。小さく取り囲む地域支援の具体的な姿を脳裏に追い求めたり見出したりする。思いが映像化することで、自分の中の共感が生まれ、地域の姿も立ち上がってくる。
そして、最後に、あの赤い丸は左右とも同じサイズ、錯覚なんですと種明かしで、ドッと笑いも湧いて日常のみずみずしく新鮮な感覚におとしこむ。

この時代を生きる生活者は、誰もが困難な社会に暮らしている。自分のことで精一杯なのだ。とても、よそ様のことまで手が回らない。そのギリギリのところで、それでもなお、誰か他者に手を差し伸べることでしか、自分も自分らしく暮らすことはかなわず、次の世代の子や孫にこの社会の未来を引き渡すことができない。そういう思いを誰もが持っている。その一点に賭けるようにして、そのことを語る。

それは生活者への深い敬意と願いを込めて語るしかない。
ネガティブな恫喝で人が動くと思うのは、生活者への冒涜に近い。相手への信託なくして、どうメッセージが伝わるというのか。聴く人への深い敬意を込めて語れば、きっと伝わることがある。それは語り口の上手下手では決してない。わかってもらう技法として、レベルを下げることでもない。
座り込んで目線を合わせ、手を握りしめながら、幼児語とは言わないまでも平易な言葉をやりくりすることで伝わるかといえば、多分、そんなことではない。
聴く側の一人ひとりの思いと力を揺り動かすようなメッセージを届けたい。

では、どんなメッセージがあるのか。
それは例えば、「希望宣言」を発表した認知症当事者たちの発信である。
最近、「認知症『でも』できること」から、「認知症『だからこそ』、できること」へと変化を見せている。「認知症」に続く接続助詞を変えただけだが、劇的とも言えるパラダイムシフトを示す。

「認知症でもできること」というメッセージの力は当事者発信の確かな駆動力だった。そこには世間の「認知症になったら何もできなくなる」という旧来の認知症観と偏見をくつがえし、当事者の人生へ歩み出す明確な姿勢があった。

ついで打ち出されたのが「認知症だからこそ、できること」だ。
ここに響くのは、認知症当事者の権利の主体者としての覚悟と決意である。
確かに認知症の人は自分のことで精一杯だろう。そのギリギリの地点でなお一歩を踏み出す。
それは他者と連携することでしか自分らしさは維持できるはずもないことの気づきだ。だから「認知症だからこそ、できること」なのだ。
それは言いかえれば、認知症に関しての「経験による専門家」としてのこの社会への役割の表明である。

「認知症だからこそ、できること」、ここにはまっすぐ、希望の未来への物語がある。希望の未来を語る難しさに誰もがたじろく時に、率先して認知症の人がこの社会へ希望のメッセージを発信している。

そして、このメッセージが普遍性を持つというのは、この主語の入れ替えが可能だからだ。
「認知症」を「あなた」や「私」に交換してみよう。「あなただからこそ、できること」、一人ひとりが地域と自分の人生の主人公として、「できること」を持ち寄って、それをつなぎより合わせるようにして、共生の地域が生まれてくる。

「私だからこそ、できること」、それはなんだろう。
そう考える時、あの図柄の真ん中の赤い円である私は、取り囲む小さくたくさんの支援の円と、弾むようにして立場を交換することになる。
そして、地域が息づき、動く。

|第86回 2018.11.28|

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